かなり古いアメリカ映画なんだが、20世紀FOX作品「眼下の敵」(1957年)で、最近フト昔見た記憶の中から気になることがあって、しばらく頭にこびりついて離れなくなり、いまだに悩んでいる。


映画のストーリーは、とてもわかり易い。
ナチスドイツの潜水艦Uボートと、アメリカ海軍の駆逐艦(=水雷兵器を多装し、高速航行可能な対潜水艦用に作られた軍艦)とが、真夏の南大西洋海上で死闘を繰り広げる戦争アクション。
アメリカ艦長を演じるロバート・ミッチャムは、先にUボートに撃沈された貨客船航海士で、船もろともフィアンセを失い、復讐のために海軍入りして駆逐艦艦長に就任した志願士官という役どころ。
一方のUボート艦長のクルト・ユルゲンスは、第一次大戦の頃からの生粋職業軍人で、息子2人を軍人に育て上げたが、共に父より先に戦死された過去を持つ役どころである。
対照的に見えて、実はこの両キャプテンともに戦争を好んではいない。

レーダーと音波探知機を駆使して互いの位置を探りながら、限られた数量の水雷兵器(爆雷、魚雷)で相手を仕留めようと、慎重に作戦を模索遂行する。
最後に駆逐艦、Uボートは相討ちとなる。
火災から双方乗組員が海上に脱出する中、ミッチャムはユルゲンスと相まみえる。その時の敬礼が👆️のシーン。
時限爆弾を仕掛け、瀕死の怪我を負った部下と運命を一緒にしようと腹を括ったユルゲンスに、ミッチャムが救助のロープを投げる。
そして…………
エンディング間際でいよいよ、僕の引っかかりが現れる。

翌朝、救援のアメリカ海軍軍艦上で、Uボートで戦死したドイツ士官の水葬が両軍合同でしめやかに行われる。
船尾のデッキにいるユルゲンスにミッチャムは歩み寄り、先ず自分のタバコ🚬に火をつける。そして一服してから、1本🚬をユルゲンス差し出す。
受け取ったユルゲンスに、ミッチャムは自分のタバコ🚬渡し、ユルゲンスはその燃え口を受け取ったタバコに充てて火を灯し、深く吸ってから、そのタバコ🚬をミッチャムに返す。
そして、有名なラストの会話。

「………今まで何度も死に目に遭い、その度にいつも生き残ってしまった。今回の責任は、キミにある。」(ユル)

「知らなかったよ。……じゃぁ、次はロープをもう投げないことにしよう。」(ミ)

「いや、キミはまた投げるに違いない。」(ユル)


問題は、このタバコ🚬の火の交換。
最近はタバコが迷惑行為と見なされるようになり、かつての映画や文学で「コミュニケーション」ツールとして粋な演出道具として扱われた名誉ある地位を追われてしまったようである。
だが、この映画では、当然ながらそれがキチンと扱われている。
僕は、コレがどうも単純な友情の証で済まされない、ある種の暗さを感じてしまうのだ。
何といえば良いのか、実にホモセクシュアルに近い後ろめたさを想像してしまうのである。
燃えた赤い火の口は、そのまま唇であり、そいつを交換してあわせ合う行為は、どこかKissにイメージが重なる。
そう、その“重なり”ってやつの妙なエロチックさだ。
この作品には、女優は一人も登場しない。当然戦場が舞台だから、さもありなん。
で、なんだ。
男の世界で、友情が、時として倒錯した同性愛に転じてしまう事情は、少なからずあったらしい記録は文学史に残されている。
それをもって一緒くたにするのも乱暴かもしれないが、この作品の作者(ディック・パウエル監督)は、同性愛を暗示させるようなメタファーとして、このタバコ🚬を用いて、“遊び”を仕掛けて楽しんでるような気がしてならない。
僕の気になって仕方ないことは、そのことなんだよ。
こんなのどこの映画評にもないし、当時の関係者は既に誰も残っておらず、確かめようがない。

永遠のなぞになってしまったことだからこそ、僕の心の中のもやもや感は、一生消え去ることはないだろう。
東京海洋大での勉強とは、なんら関係のないことなんだけど…………