雑司ヶ谷の下宿にて
夏目金之助から漱石山房への出入りを禁じられ、春浪は雑司ヶ谷の下宿で失意の日々を送っていた。まだ1行とて文章をカタチにして著したことのない春浪は、作家になる理想ばかりが先に立ち、何を書きたいのか自問自答を繰り返していた。従って山房に出入りして文学修行の先輩らと交わるにも、「門下生」を自称する我が肩身の狭い思いをすることばかりだった。
しかし、先輩連中からすれば春浪のその豪放磊落な気性と、まず行動ありきの習性が皆から可愛がられる美点でもあった。鈍感な春浪は、そうした自分に対する良い評価を是として捉えることがなかった。極めて残念なことであった。
信頼していた師からの絶縁宣言は、若き春浪の心に深く刺さった。
ちくしょう……俺の何が間違ってたってんだ……!
畳に寝転がり、天井を睨みつける。あの一件以来、水産講習所学生・漁藤との行き来も、途絶えてしまっていた。
そこへ、追い打ちをかけるように、街鉄を汚した件での損害賠償請求書が届いたのである。



警察署での邂逅、そして新たな因縁
春浪たちが手桶の汚物をぶちまけ、健蔵と激しい取っ組み合いを演じた後、当然のことながら全員が警察の厄介になった。騒ぎを聞きつけた夏目家から引き取りに現れたのは、金之助本人ではなく、女房の鏡子と弁護士だった。
鏡子は健蔵の顔を見て、驚いたように言った。
アナタ、金之助が熊本の五高から戻り、英国留学に向かうまでの短い期間、千駄木で書生されてたうちのお一人、多田さんでしょ?
健蔵は、自分をかつて下宿させてくれた恩師・夏目先生の夫人が、目の前の喧嘩相手を庇護しに来たことに愕然とした。一方の春浪もまた、恩人夫人の前で、喧嘩相手の街鉄技師が、自分が噂に聞く金之助の最も可愛がっていた古い門下生(預かり書生)であることを聞いて、言葉を失った。
保釈後、鏡子は二人に「当分の間、山房への出入りは慎んでいただきたい」と告げた。金之助からの意を受けてのことだ。事実上の出入り禁止宣告だった。
そんな中でのことだ。
数日後、雑司ヶ谷の下宿で塞ぎ込んでいた春浪の元へ、街鉄会社からの正式な請求書を持った健蔵が訪ねてきた。
押川春浪さんだな。いや、正式には押川方存だ。街鉄会社の多田だ。この度は、車両汚損の件で………
健蔵は仏頂面で事務的な用件を切り出した。春浪もまた、憮然とした態度で応対する。
ああ、その話か。金は追って払うさ
追って、とはいつだ? 会社としては早急な対応を求めている。そもそも、貴様らの馬鹿げた行いのせいで、どれだけの迷惑がかかったと思っている!
互いの怒りが爆発しそうになるが、健蔵はぐっと堪えて冷静さを保とうとした。
……俺はな、松山中学で数学教師をしていたんだ。だが、曲がったことが大嫌いな性分でな、色々とあって辞表を叩きつけた。今は街鉄技師として、この都電の運行ダイヤグラムを1秒たりとて疎かにしない。それが俺の流儀だ。
だが、あの老婦人の件は、俺にも非があったと認める。知らなかったんだ。お前さんの友人が不自由な身を押して往来を渡ろうとしている老婆に介添えをしてやってることを。だが、それとこれとは、今は切り離させてもらうぜ。会社の指示に従い、まずは事務的に話を進める………させてもらう
健蔵は畳に座り込み、具体的な金額と支払い方法を説明し始めた。



意気投合
支払いについての話が一段落した時、張り詰めていた空気がふと緩んだ。
春浪君よ、アンタも、先生の教え子だったんだな。知らなかったぜ
ああ。先生は俺たちの中に『抑えきれない情熱の炎』を見たと言ってくれた。あの時は……夢中だった
先生の言葉は、俺にも深く響いた。だが、今回は程度を越してしまったと怒鳴られたよ……君等より俺の方が社会人として大人だ。なのに、運転台放り出して、君らのところに殴り込みかけたんだからな(笑)
健蔵は、春浪の純粋で向こう見ずな情熱が、かつての自分と重なる部分があると感じた。春浪は早稲田で政治学を修める身であり、この国の未来に熱い理想を抱いていた。
しかし、この一件で、無期停学処分を喰らっている。そのこと自体は気にしていない。引っかかりは、唯一漱石山房からの破門だった。
俺は大隈公の膝元で政治を修めている。この腐りきった明治の世を、真正面からぶった斬ってやろうと思ってるんだ
ふん、世の中の不条理を前にして、俺たちにできることなんざ、たかが知れてるかもしれん。だが、野蛮だ未開の土人だと怒鳴り散らす俺の心にも、お前と同じ炎が燻ってるのかもしれん
互いの一本気な気性、そして世の中への反骨心が、奇妙に噛み合い始めた。言葉を交わすうちに、二人はいつしか意気投合していた。



新たな生活、新たな呼び名
結局、損害賠償の話はうやむやになり、健蔵は行く当てのない春浪を見かねて、自身が婆やの清と暮らす神楽坂の裏路地の家に連れて帰ることにした。
収入皆無の春浪を相手にしたとて実入りのないことは自明なので、健蔵が、立て替えたと見られる。
雑司ヶ谷の下宿を引き払い、健蔵らとの新たな共同生活が始まる。
六畳一間の質素な住まいだが、そこには独特の男臭い空気が流れていた。朝は早く、健蔵はまだ夜が明けきらぬうちから、街鉄の制服に身を包み、トントンと足音を立てて家を出ていく。残された春浪は、昼過ぎまで寝床でゴロゴロとしている怠惰な生活を送っていた。
住み込み女中の婆や・清は、そんな二人の様子を
まったく、手の掛かる二人ですこと」と呆れ顔で笑い飛ばしていた。でも世間を長いこと見渡してきた老女には、2人のまっすぐな気性がとても愛おしく思えた。かつて健蔵にそうしてやったように、彼女はガマぐちからクシャクシャの紙幣を1枚取り出し、それを丁寧に延べて、春浪に渡すことを時々した。
夕食の食卓ではいつも賑やかだった。健蔵が仕事での理不尽をこぼせば、春浪は早稲田での講義の内容や、この国の政治の在り方について熱弁を振るう。
なあ、健兄(けんにい)。この国はもっとこうあるべきだと思わねぇか?
春公(はるこう)、お前の理想論は青臭すぎるんだよ。まずは目の前の現実を見ろ。俺たちは、この東京の街を動かしてるんだ
互いを「健兄」、「春公」と呼び合う二人の間には、いつしか確かな絆が生まれていた。
師の厳しい沙汰によってもたらされた、二人のバンカラ野郎の奇妙な縁は、神楽坂の裏長屋で、静かながらも確かな熱を帯びて、新たな展開を迎えていた。