めぐろ みんなのうた 前編 |  美しい暦     

 美しい暦     

   Calendario bonito           

最後にフカヤ・カンタローがしっかり私の目を見て握手をし、きちんとしたブリティッシュの発音で「Good bye. Please, have a plenty lovely days. We have a very chuffed tour. Thank you.」と姿勢を正し、リーダー少年らしい語気で言って隊列の最後尾についていった。彼らは何回か振り返り手を振っていく。いつまでもそうして見送る私たちの目に、彼らの小さくなる姿は線香花火の愛らしい静かな瞬きのように感じた。

 

急坂の降り口の両側には、イシドーローと呼ばれる60インチほどの高さの石材製ランタンが据え付けられていた。

これは、そこが夜半になっても人々の往来する道路であるというシンボルのようなものだ。夜になるとキャンドルを燈して通行人たちの帰宅の足元を告げたり、神仏への夜のお参りの気分を高めたりしてくれる。火入れの箱の下部にはこれを寄進した人の名前や帰属、寄進の目的などの日本語が刻印されている。私たちの一行(と、言っても通訳のシッキーと、この場所までの馬子が2人、ちょっと貧弱な印象の駄馬のパーティーだった)は、明けの五つ半過ぎにここへ到達できたので、もちろんキャンドルの揺れるような臭い明りは灯っていない。

幸運なことに、江戸郊外の澄んだ午前の空気を通して、坂の上から遥か富士山を拝むことができた。

周囲の人々は、まるでここでそうするのがしきたりやマナーであるかのように、皆、「フジサン」「フジサン」と言って、行く手をほれぼれと見遥かしている。

いったい、彼らの言う「フジサン」というのが、山の名前である「富士」に「様」というコトバの短絡形である「さん」(たとえば「お婿さん」とか「ジョンソンさん」とか)を付けたものなのか、それとも「山」をあらわすカンジの別のややシナふうの読み方である「サン」なのか、私は最近ひどく混乱してしまっている。

富士山の麓には、私たちの目的地である目黒のオフドーさんの杜である緑の深い小高い丘が見える。ちょっと近くに目を移すと、メイポールか何かと見間違うような30フィートぐらいの木材の棒の頭から綱が四方に張られた用途不明のものと、屋根だけがある壁の無い雨ざらしの通路が下り坂の途中に見えた。その通路を旅人が遊山目的で歩いている。道端には古い木製の箱に車輪を付けたものが、酒の大徳利の2つ並んでいる脇に停められていた。箱には人が手押しできるよう、取っ手がしつらえられており、これは「ベビー・バギー」ですと、新任の通訳は教えてくれた。何でも繰り返し使って無駄にしない日本人のことだから、もう何十人もの赤ん坊がこれに押し込まれて「大旅行」をしたに違いない。

 

いつもはテラコヤに片付いて、私たちには絶対に読めない流れるような筆記体で日本語の文字を筆で習い書きしたり、驚くようなテクニカルな幾何の問題を解いたりする年代の少年たちが、一方向に小走りしたり早歩きしたりして背後からやってきた。

彼らは皆、ワラジのようなものをつっかけており、もちろんここから富士を眺めるために、坂の上を最初の目的地にしてやってきたはずである。

中のやや小柄の一人が、仲間に何か叫んでキモノのスリーブからチョーメンのような紙のつづりをにじり出し、鉛筆と思われる筆記具で、立ったまま光景をスケッチし始めた。

背後からこっそりとそれを眺めていると、遠近法を駆使してなかなかの筆致で輪郭をとらえて描いている。太くて柔らかそうで折れにくく見える芯を綺麗なマホガニー色のニス塗りの軸の角度をくるっと変えながらスッスと描いていく様は職人じみて見事だった。

まったく日本人の画才というか美術感覚の高さには小さい頃からあっぱれだと恐れ入る。私は驚き、思わずうっかりと英語で「Your pencil?」と背後から声をかけてしまったが、さらに驚愕…というか仰天したことに、少年は屈託の全くない温和な日本人の子供の笑顔を振り向きざまに仰角で返し、「イエス!イッツ マイ ペンソー!」と英語で返してきた。彼には異国の言葉で突然声をかけられた事態への躊躇というか、恐れもサプライズも一切なく、場慣れていて、逆にホッとしたよという温かい声と表情だった。追い打ちをかけるように私をビックリさせたのは、彼の隣でスケッチの仕上がりを見ていた少年が、なんの前置きもなく、流ちょうなアメリカ植民地訛の英語で、

「Hi there! Where are you come from?」と尋ねてきたのである⁉

私が反射的に出身地の英国の地名を返すと、その子は私がイギリス人であることを即座に判断したのか、突如「ブリリアント!」と反応すると、先ほどまで日本語で「富士山だ!」「富士山だ!」と叫んでいた少年たちに向け、「エヴリボディー!エヴリボディー トギャザ!チーキーピューピルズ!」と英国風に微妙に言い方を変えた。

サムライの子供なのだろうか?かなり清潔そうなキモノをまとった少年たちが1ダースばかり集まって、午前11時ごろバッキンガム・パレスの前に行ったら同じものが拝めそうなくらいの美しさで横隊に列を作った。ブリティッシュを話す少年から「気を付けぃー!礼ぃ!」と今度は日本語で号令をかけられ、きっかり5秒間オジギをしてから頭を上げた。

彼らの頭髪はあまり短くはなかったが、どの子も江戸以遠の日本人の男の子供が頭の中によく飼育しているようなシラミやノミを持ってはいなかった。ここ江戸市中の人々の方は拷問とも思われるような、手を漬けることさえ憚られるかなり高温の風呂へ日に何回も浸かる。チケットを使って風呂を使いに行く者までいる。私の感じでは、彼らが大好きなのは沸騰寸前とは言わないまでも150°Fぐらいの熱湯だ!私の見学した公衆浴場(ユヤ)は混浴だったが、この子たちよりも少し幼い男の子の声(浴場は暗がりで蒸気もあり、よく見えないのだ)が、母親から「オカ・ユ」(日本語で「クリーン・ボイルド・ウォーター」という恐ろしい意味だ!)をぶちまけられて両目をつむりながらグアグアと楽しそうに悲鳴をあげていた。これではノミもシラミも生きおおせられるわけがないだろう。ここに並んだ少年たちは肌も比較的きれいで、ぴかぴか光る紅い頬や元気そうに交錯するセイロン・コーヒーの色をした二の腕は健康的で明るかった。彼らが一斉に頭を下げ、再びこうべを上げたとき、表情はどの子も肌の色と同じく明瞭で心安かった。今度は私がWhere are you come from?と問い返すと、彼らは一斉によく知らない、多分江戸城下や屋敷町の地名を口々に叫んだ。通訳もこの地名固有名詞の洪水に閉口し、「ショーグン様のジョーカにはご存じのように808個も町名があるのでございます。」と前置きし、江戸は大規模な都市火災を経験するたびに郊外へと社会基盤を疎開させていき、町を作って人口を逃がしていったという話をしてくれた。「そちらの麓にあるダイエン寺から、坊さんの放火で火が出たメーワの火事は江戸中を焼き尽くしたのでございますよ。」と英語で説明を受けた。目黒から出火して、日本橋から駒込まで延焼するというのは、いったいどういう惨事なのかと、はるばる江戸市中から朝ごはんを2回食べ直せるくらい長いこと馬に揺られてやってきた私は驚きを隠せなかった。

 

いずれにせよ彼らは目黒村の子供たちではないらしい。私がそれを確かめるため、目黒に住まっている子はレイズ・ヨー・ハンドと尋ねると、バッキンガム衛兵の左側に並んでいたマルーンの髪の子と中央の前列にいた子が少し考えながらレイズ・ゼア・ハンズした。マルーンの子を当てると、「ナカメグロなんですが…、ちょっと古いマンションなんですよ。」と日本語で答が返り、先ほどの少年(リーダーらしい)が「ナカメぇ?オー!イッツ・ラブリー!」とすかさず反応した。通訳(彼は通常「シッキ―・バキン」と自称していた)は、もちろん「マンション」を正確なイングリッシュで「大屋敷」と訳したが、目黒村の谷に向かっての一帯は、トノサマたちの別荘と言うかお屋敷が見られる。これから降りる行人坂のたもとの一帯は島津サマや細川サマといったダイミョーの魅力的なリゾートであるという。彼らがそこでウエディングセレモニーをしたり、シノワ・キュイジーヌを堪能したりする姿さえ見えるようだった。マルーン少年も、きっとどこかのお殿様のワカギミであるに違いない。ナカメグロはタケノコ(食用のバンブーシュート。日本人はこんな変わったものをシナの影響で食べる)の産地で、彼の普段学ぶ「スクール」のエンブレムはバンブーシュートだと教えてくれた。

次に中央前列に立っている子の方を当てると、今度は富士山の方角を指さし、

「そっから、目黒ドーリ(発音ママ)をまっつぐ行ったところにある…えーと、このころはフスマ村とか柿の木坂って言われてるところのあたりです。」とこれもまた江戸の言葉で返答があった。目黒村の奥にはショーグン様の鷹狩りの領域があり、そのさらに奥にあるのがフスマ村らしい。シッキ―・バキンの説明によると、フスマは掛布団か小麦のブランのことで、柿の木坂はパーシモン・ツリーのある坂だということだった。日本人の地名の付け方の多くはインディアンに似ているが、ちょっとこじんまりしていて繊細で愛らしい。私は乾燥させたものでなければ、あんな悪魔のように不味い日本のパーシモン・フルーツなど食べられないが…。彼はそれから先は細かいことなので言えませんと、説明を中途で打ち切った。実はこれが、彼らの「何かを隠している」という雰囲気を漂わす発言の嚆矢だった。少年に「じゃあ、ここから歩いて帰るのですね?」と訊くと、やや戸惑って、「確かに歩けない距離じゃないでしょうけれど、ちょっと遠いです」と、やはり日本語で答えがあった。年長の少年たちは、それがここから八丁堀へ戻るぐらいの距離であると教えてくれる。

英語の話せる男の子が何人もいるのと、彼らといると心から幸せになれるような気がして、私たち一行はともに坂を下り、最終目的地の目黒のオフドー様まで物見遊山の旅路を続行することに決めた。

 

あの道 この道 笑顔が揺れる

明るい あいさつ かわしてとおる

 あなたも 私も よい朝ですね

 オハヨウ オハヨウ 四十雀が呼ぶ

 街は小鳥の歌から 夜明ける

ああ めぐろ 歌と笑顔で はじまる町よ

緑の風に 手を ふりましょう

 

江戸はおそらく世界中で最も安全な場所であり、こんな子供(歳を尋ねると9歳から12歳だと英語で答が返ってきた。日本人の年齢の数え方はかなり特殊だが、英語で答えが返ってくる場合は、私たちの年齢の数え方に同じである)だけの一団やイギリスの女性が一人で旅をしても全く身の危険や恐怖を覚えることは無い。ただし、(私は遠くから腰を低くして眺めるだけにするよう努めているが、)オーライ(アベニューのこと)をトノサマの一行が行脚というかパレードする場面に出会したら、必ず道の脇に避けて頭を低くしていなくてはいけない。運悪くこのパーティーにヨコハマ村の手前で遭遇してしまった英国人は、そこを強引に馬ですれ違うか横切ろうとしてサツマのトノサマの護衛から切り付けられ、命を失った。どうもシャンハイの商館から帰国の途上、日本へ立ち寄って馬を走らせて気晴らししていたらしい。日本のこともトノサマの行列のことも殆ど何も知らなかったのであろう。不運である。英国で国王の馬車の隊列の横や前を平然と乗馬で横切ったり追い越そうとしたりすれば、どんな咎めを受けて当然か、わかりそうなものなのであるが、往々にして私たち西洋人は東洋の文化をあまり評価していないところがあるように思える。

 

坂はヒロシゲ(武士でない階級の江戸の人々のプロナウンスだと「シロシゲ」)の名所絵版画にもある通り、7-8歩も坂を下りれば坂上から全身が見えなくなるほどのきつい傾斜で、子供たちはそれがスリリングなのか、はたまた単にオモシロおかしいのか、自分たちの小さい身体が(アイザック・ニュートン氏によれば)重力に引かれて目黒川にかかる太鼓橋の方へずり下がっていくことへ夢中になってはしゃいでいた。先ほどの富士山をスケッチしていた少年は美しい富士の望景を完成させていたのだろうか?坂を下りきったら尋ねてみよう。彼らの履物が路面に擦れ当たってたつジャリジャリというノイズが私の周囲に立って、まるで江戸一帯に時々訪れる殴りつけるようなスコール(ユーダチ)の音のようだ。これでは私の乗ってきた貧弱な駄馬では降りることができないし、降りたとしても帰りがけにここを上りきることは絶望的であろう。馬子と馬を坂上の駅(うまや)のようなところで待たせたのは良い判断だった。この行人坂上の駅(うまや)がいわば彼らの目黒駅になったというわけで、彼女らは今頃三田のご用水から汲んできたおいしい水をたっぷり飲んで馬草を喰み、復路の英気を養っていることだろう。

周囲できゃあきゃあ悲鳴をあげながら下り坂を下っていく少年たちの中、私は偶然、その富士山スケッチの少年の真横へ邂逅した。

”Have you finished sketch, Fuji-san?”

と半ばはしたなく叫び、なかば笑いながら尋ねると、まだ乳臭いいたずらっ子そうな屈託の無い表情の彼は、全く上品さを感じさせないアメリカ植民地の口調で、

"Sure!"

とヒトコト返事をしてきた。彼らの大部分は、私が日本的で微かに食指をそそられていた露天の五百羅漢のあるダイエンジ(大圓寺)に見向きもせず太鼓橋まで走っていこうとするので、私と通訳のシッキ―も何となく諦めがついて、拝観を後回ししようと即決した。寺はどちらかというと坂下の方に近い左手にあるので、帰りがけ、疲れてしまったら、羅漢様の前でたたずんで休憩したり夕陽を見て楽しんだりするのも良いかもしれない。私はこの時初めて、少年たちに何か人を動かすような魅力かがあるのかもしれないと思った。それも強引でなく、心を優しく動かす何かが。ただ、謎も多く感じた。彼らは何者であり、どこからやってきてどこへ帰るのか。オフドー様の参拝の途中で、これらをゆっくりと解き明かしていきたいと思った。

 

坂の降り口には肥後の細川様の別荘地があり、ほんの100ヤードその前の道を行くと太鼓橋に至る。

太鼓橋と言うのは日本音楽に使うドラムを川筋へ向けて沈めたような外見のブリッジという意味で、その通りに川をまたぐ橋桁が山のように盛り上がっている。少年たちは冒険心を駆り立てられるのか、これも大好きであるが、キモノの裾を閉じた婦人がたやシューズを履き、スカートをはいた私たちには渡りにくいことこのうえない。なぜこんな形状の石造りの橋を渡してあるのかというと、治水に長いこと悩まされ続けてきた日本人の水利事業にかける情熱と技術レベルの高さをさんざん見せつけられてきた私にとってはよくわかる。おそらく南アメリカ西葡植民たちにとってはチョロチョロのせせらぎにしか見えないだろう目黒川だが、いったん大雨が降り、とんでもない満潮と重なれば(私の目算では河口の品川浦からココまでわずか1マイルとちょっとしかない)水が満ちると大変な水量の濁流の流れる危険性があるということだ。ここら辺は通常の水面もかなり浅いので、周囲の田畑が水びだしになるに違いない。流されないための高度で慎重な渡橋の技術なのだ。ただ、どうして人々…とりわけ女性や年寄りたちが不平不満を言わないのかということについては、通訳シッキー・バキンの見解が参考になった。この丸い桁のブリッジは「ムーン・ブリッジ」と呼ばれ、横から見ると川に橋げたの形状が反映して満月のような形状に見えることから、日本では高雅な庭園や寺社の前庭の堀にデザインや何かのシンボルとしてよく使われる意匠なのだという。ここ目黒の太鼓橋も、考えてみればこれからオフドーさまへと向かう、参道の穢れた現世とホトケさまのパラダイスを繋ぐシンボル・ブリッジなのである。

先ほどのスケッチの少年が太鼓橋の頂上へスタスタと登りきると、そこから川面を見下ろして

「今日はサンマが泳いでいないなぁー」

と不満げに言って、年上の少年たちを笑わせていた。

サンマというのは日本人の大好きな食用のスキッパー(サウリィ)のことで、やたら脂ぎっていて、成魚を焦げ目がつくぐらいグリルして、それにチョーシの醤油をポタポタたらし、魚の油と混ぜてチョップスティックでほじくり出して食べるのである。目黒川では海運を小分けにして小舟を遡上させるため、品川浦から運ばれたりもするのだろうが、12インチぐらいの細っこい魚がしばしば遡上してくるようには思えない。スキッパーは海魚なのだ。少年たちがなぜこのスキッパーのハナシで大ウケしたのかを私が通訳と怪訝そうな顔で話していると、英語の堪能なあのリーダーと思しき少年が、ちょっと体格の良い円満で人好きのするような丸い顔の少年(名を問うと,カガという姓で幼名はキョータローだと言った)を引っ張ってきて説明をさせた。説明というか、それは私の見たことのない日本のスタンダップ・コメディーのようなもので、小さい男の子が声を曲げて妙な声色で何やら延々と話を繰り出し始めた。シッキ―はニヤニヤしながらそれを英訳し、少年たちは真摯な顔でそれを聞いている。「ラクゴ」(意味はドロップ・ストーリーだそうだ)と呼ばれるコメディーで、ふつうは舞台に座って(日本人の芸能だからおそらく正座)特別の劇場で話すものらしい。ラクゴ少年の口調は次から次へと垂水のように流れ、周囲を行く参詣の人々は語り手が子供だからとこんなところで話しやがったかとバカにしたように笑い10秒間ほど冷やかしにそれを聴くが、子供の真似事であると判じてすぐに通り過ぎてゆく。話の内容は、このリゾートへやってくる人々の全員が知るところらしかった。

「お鷹場から帰ってきたトノサマがどうして途中でチャヤ(ティー・ハウス)に行ったんだろう?」と横やりを入れた少年がいたが、マルーンの髪の中目黒に住まっている(多分)トノサマのワカギミが、

「デンドーショー(発音ママ)のちょっと上の方にチャヤザカってのがあって、そこにジジガチャヤっていうのが建ってるって話だよ。山の斜面なんだけど、そこからショートカットしてHero-oから麻布に抜ければお殿様がたの上屋敷への近道なんだ。」と説明していた。鷹場と言うのはショーグンさまやトノサマが上手に飼い慣らした鷹を使って小動物を捕獲させ、餌とすげかえる狩猟法のフィールドで、もちろん西洋にも東洋にも広く存在するハンティングではあるが、この国の鷹狩りは最高位の支配階級の男たちの得別な精神修養の儀式というか武道のようになっている。彼らは自分たち以外は禁猟の広大な土地を管理しており、目黒村はその禁猟区のとば口であるということだった。

ラクゴの要旨は、以下。鷹場から帰るショーグンさまが、空腹に耐えきれず目黒村の山の斜面にあるチャヤ(日本でよく見かける半屋外のティー・ハウス)にやってくる。店番のオールドマンが、中下層の庶民たちしか食べないような魚油脂肪の摂取源であるスキッパー(サンマ)を手間もかけずグリルしてショーグンさまに供すると、たいそう気に入られ、お城に帰ってから御殿でもサンマが食べたいという。そんな下層民の食べ物を料理人たちは知らないか、日本で一番高位のサムライに饗すれば失礼にあたると思ったのか、スキッパーを上品に料理してサシアゲたが、ショーグンさまは不味い、どこで獲ってきたサンマだ?と不機嫌だ。彼は最後に一言「やっぱりサンマは目黒に限る!」。

このラクゴのパンチラインの根幹は、庶民なら誰でも知っているサンマの味と水揚げ地をショーグン様は知らずに自慢しているということと、同じ魚なのに庶民のチープな調理法の方がよほど食材の魅力を引き出しているという彼らの優越感だ。だが、ここにはさらに2つの言外の「心」というべきものがあるように感じる。一つは日本の国で一番高い階層のサムライであるはずのショーグン様の味覚が、庶民と全く変わらず、被支配民たちは彼に親近感を覚えるであろうこと。もう一つは、相手がショーグン様であるのにもかかわらず、自分が食べるためにとっておいたサンマをただグリルして差し出したチャヤの年寄りの行いをショーグンさまは身に染みて感謝し、サンマは目黒に限ると言っているように感じることだ。自分よりはるかに身分の低い、年老いたつまらない店の者の行為を彼は楽しい小旅行の美しい思い出として語っているのである。

結局私はこれらの思索を通して、このラクゴを江戸市中に名をとどろかす有名な太鼓橋のてっぺんで一心に語ってくれたカガ・キョータローという少年の人懐こさ、チャーミングさ、相手が英国人であろうとなかろうと楽しませてやろうというサービス精神に惹かれ心打たれた。

いったい幸福なこの子たちは何者であろうか?

 

私のこの素朴な疑問は、だが、太鼓橋を渡り終えた橋詰めでたちまち氷解したのであった。

目黒川のオフドーさま側の岸には、何の変哲もない田畑が、ところどころに散在する領民の茅葺屋根の質素な家屋とともに広がっているだけだ。はるかに寺社の門前町の街並みが望める。年長の少年たちはこの光景(特に太鼓橋詰の右にあたる北の方角の河岸)を指さして、意味ありげでいわくつきの邪悪な笑みを浮かべながら、

「エンペラーだ!エンペラーだ!」「目黒エンペラー!」

と口々に言って、キャッキャといやらしい笑い声をたてていた。

彼らがなぜ、ここでミカドの名をよばって悪ふざけしているのか、一向に明確でない。ミカドは京の都におり、江戸の西端の田んぼの中にお住いのわけがない。恐れ多いお姿の案山子やお地蔵様も見渡して探したがついぞ見つからないままだった。そうしているうちに、少年たちの何人かが、

 

♪エンペラァ~ ルルル エンペラァ~

 

と、あたかもロンドンへやってきたヘンデルのオペラのような発声で歌い始めた。

もちろん聞いたこともない曲だが、彼らの歌声は日本人の少年には出しえない発声で、かすかにホモフォニーな音色を感じる。

 

彼らはその「エンペラー・ソング」をおふざけで暫く滔々と歌いながら酔いしれていたが、一人の子供が右腕を振り上げて宙を搔く仕草をすると、それを合図に語尾だけ伸ばし、声を張り上げて打ち切った。歌いやめておきながら彼らはまた地べたにバカ笑いのまま転げまわり、私とシッキーを唖然とさせた。

「一体、あなた方は何者なのですか?」

と私は彼らの素性を尋ねる最初で最後の質問をした。

彼らはクワイアーと答えた。

日本のどこの教会でサービスするクワイアーなのだろう。彼らの発声は、ミサ曲や聖餐式のまさにそのようなトレブル的なものであった。

「クワイアーがなぜ、オフドーさんやおトリ様を参詣にやってきたのか」と私は尋ねた。

オフドーさんは釈迦の一つの形態で恐ろしい顔をし、チベット仏教で雷電を表す金属の道具を使い人々を浄化しようとする。おトリ様はヤマトタケルという天皇家の祖先が死んで白鳥になり飛んで行ったというミカド信仰で、どちらもキリスト教とは全く関係がない。

キリスト教会に仕えるはずの彼らは「オフドーさんやオオトリ様ごあいさつして拝むために来た」と全く躊躇も他意もなく答えた。

 

これには日本人全体に見られる2つの独特な宗教観が深く影響を与えているものと思われる。

日本は国土全体が非常に豊かで穏やかな自然に恵まれた幸福の国である。生命に満ち溢れる国なのである。

住んでいる人々は、だから天の上のどこか高みにただ一人君臨して人間どもを見張っている唯一神を思い描きにくい。彼らは日常のありとあらゆる自然と生活空間に神が宿ると考えている。山を見れば、そこに神が一人いると考え、丘を見れば、そこに神が一人いると考え(フジサンはそれ自体が神なので、そこへ登るのが巡礼だと広く慕われている)、湖を見ても、そこに神が一人いると考える。林や森にはそれぞれ神がおわしまし、バスルーム(レストルームだ。トイレットのことである)にも神様がいて、各家庭の台所にも、リビングルームにも神様が宿り(この神様は子供の姿をしていて、どうも男の子らしく他愛のないイタズラが大好きなのだが、彼がリビングルーム…座敷…にいる家は幸福で栄えるが、彼が去ってしまうとその家は廃り没落するのだそうである)、また庭や門に神様が降りてくると信じている。極端なものとしては「コトダマ」だ。自分のしゃべった言葉にも神様がいるのだと普通に考える。いわゆるアニミズムだが、彼らの場合はそれを恐怖の対象とせず、自分たちとともに生活する心強い味方と考えている。これは、悪霊や悪いものを極端に恐れるコリアでよくみられる一般的な呪術的カルトとは対照的である。神様はだから8百万もいて彼らの生活とともに生きている。これから行く寺や神社でよく見かけるウマ・蛇・キツネ・狸(彼らはひどく巨大な睾丸を持っている、オスなのである)・片手を挙げた猫・犬(コリアの犬という名称だが、外見は一対のライオンの子供である)・サル・シカ・オオカミ・牛そして三本足の奇形のカラスまで、日本国内で身近にみられる小動物は、すべて神様のお使いと考えられ、アルビノのウマや蛇や真っ白い猫は特にありがたがられる。これはおそらくその国の風土が影響を与えているようで、日本の「どこでも神様信仰」にしろコリアのカルト的傾向にしろ、何百年たっても変わることはないだろう。日本人はだから、逆に仏教も神道(神社の宗教だ)もキリスト教も、そのたくさんの神様の一つとして簡単に受け入れてしまう。彼らはアドベントや降誕祭のお祝いをした帰りに神社へ行って鳥化したヤマトタケルの記念品(豊穣を祈り、竹のレーキ…掃除用具だ…に稲穂・偽造貨幣・米俵や赤い魚の作り物、江戸の人々に人気のダイコクさまとヱビスさまのポートレートなどをひっかけた飾り物)を買い、その足でオフドーさんへ参拝して「悪いことはもういたしません」と真剣に告白したりするのに違いない。

もう一点の日本的宗教観は、まるで楽天的な「宗教は商売の一形態」という驚愕の価値観である。

先ほど、神のお使いの一つとしてキツネを挙げたが、日本ではこのキツネを小さなかわいい神社に祀って、スライスしたトーフを程よくフライしたものを生贄にささげているのによく遭遇する。これは、そこにたくさんのキツネが住んでいたからとか、そういう故事によるものではなく(キツネは田畑で穀物を食い荒らすネズミを餌にして減らしてくれるため、そういう場合もあるのだろうが)、お金持ちや特定の仕事に従事する何人かがより集まり出資して「キツネのお使い」のフランチャイズ権をその筋から買って祀るのだという。信仰商売なのである。また、目黒村のオフドーさんといえばあまりにも有名なのが「トミクジ」と呼ばれる半公営ギャンブルで、いわゆるlotteryである。これを仏教寺院が政府のお墨付きのもと行っている。理由はもちろん寺の財源確保である。人々はそれが背徳であるとも思わず、ホトケが自らに味方してくださると適当に思い込んで、このクジをスリリングに楽しむ。結果的に、ほとんどの者がホトケに見放される結果となるのだが、彼らはそれでよいと割り切り、またチャレンジすると楽天的に思っている。

日本人は無宗教ともいえる仏教や神道との身近で楽天的な付き合い方をしているのだ。

少年たちが教会付きの聖歌隊の一団であり、彼らが物見遊山でオフドーさんへの小旅行を楽しんでいるとしても、日本では特に変わったことではないのだろう。

 

私たちクワイアーの一行は、直接目黒フドーへ至るアベニューへと進まず、河岸の(彼らが「目黒のエンペラー」と邪悪な男の顔つきで騒いでいた畦道のようなところを進み、上流へ遡上し、一つ向こうにあるシムバシ(新しい橋という意味である)というブリッジの方へ歩いていった。おトリ様へお参りするためである。この橋は私たちが先ほど下りてきたあまりにも急峻で商業にも女性にも不向きな行人坂の隣にゴンノスケという殊勝なお方が普請なされた「ごんのすけさか」という新しいなだらかな坂の麓につながっている。目黒川を超えて農作物を江戸の街へ運びいれる荷車は、こちらの坂を登ってゆくのだそうだ。江戸の人々は、直接オフドーさまへ通じ富士山も鑑賞できる観光用の坂と、まったく商用・物流に最適で作物産地に直結する坂を隣接して2本通すという非常に賢い土木事業のセンスを持っている。

私たちはシムバシのたもとを通って、畑地の中を200ヤードほど進み、次の登り坂であるコンピラ坂のたもと、おトリ様へと到着した。コンピラというのは、ガンジス河に棲む大ワニの化身で、日本人らしく神でもありホトケでもあるという皆の大好きな分類の超自然的存在だ。坂はこのコンピラ様をまつる御堂の脇へつながっているのだが、私たちは時間的にお参りを断念した。

おトリ様の荘厳な植栽と、瀟洒なお堂の屋根が見える参詣路を進んでいると、後ろから先ほどのカガ・キョータローが走り寄ってきて、コンピラ坂の由緒をおしえ、

「坂の途中の2ブロック先の左の角にパラサイト・ミュージアムがありますよ。」

と英語で教えてくれた。彼が「パラサイト」という英語を知っていたのには驚いたが、それを問うと「僕のいるところでは普通に使うコトバです。従姉妹のお姉ちゃんはパラサイト・シングル(「単独の寄生虫」?意味不明である)だし…」と今度は日本語で答えがあった。それにしてもパラサイト・ミュージアムとはどんなところだろう?寺社の参道によくあるグロテスクで作り物じみた「生き物」(?)を見せる見世物小屋のようなところなのかもしれない。通訳のシッキーは「知りません」と言っていた。少年は「若い男女がよく逢引に訪れる名所らしい」と彼に告げた。私が「どうしてそんなことを知っているのか?」と問うと、彼は再び英語で、

「そのコーナーを左に曲がって少し行くと、僕のおじいちゃんが通っていた目黒サンチュー(発音ママ)があります。ピーイー(発音ママ)の時間によく先生からその道を通って目黒不動の境内まで走らされたと言っていました。境内には急な階段もあって、プラクティスはとても疲れたそうです。」

と話してくれた。どうも、コンピラ坂からも、目黒のおフドー様へ通ずる裏道があるらしい。

 

私たちがおトリ様(正式な寺社名は大鳥明神社で、人々はオオトリ様ともオオトリ神社ともオオトリさんとも呼ぶ)の美しく清掃の行き届いた短いステップをゆっくりと駆け上がるとセンスの良いトリイ(神社のゲート)が立ち上がっており、境内は巻いたフォグ・グレーの大カーペットをサッと展開したように広がった。目に余るほど広大な敷地というわけではないが、落ち着いた植栽が涼しげに清掃の行き届いた中へ立っており、人々のお参りを見守っているという感じがする。ここには比較的古めかしい樹木が無いわけではないようだが、それらが全部御神木ということではなく、そこがセンスの良さを感じさせる。通訳のシッキーはここがヤマトタケルという日本のランドメイカーのミコトをおまつりしてある神社であると教えてくれた。それが目黒村で最も由緒のある神社である理由らしい。カガ・キョータローは私の右脇にサッと寄ってきて、

「ヤマトはAD2世紀ごろ西日本から日本を占領していった王国の名前で、タケルというのはブレーブという尊称です。ヤマトの王様がミカドです。」

と日本語で説明してくれた。ヤマト・ザ・ブレーブが厳密には現在のミカドの直系ではないが先祖であるらしい。彼は死んで白鳥に生まれ変わり、その神話をもとにおトリ様のリーグが作られたというのだ。

キョータローの右横には三白眼のあまり東洋的ではない目をしたゆるいカーリーヘアーの少年がいつもくっついて歩いている。カガは彼をポコちゃんと呼んでいた。背丈はキョータローの目の辺りの高さで、英語で歳を問うと来月9歳になるという。肌の色は普通の日本人の少年のようだが、顔の造作はどことなく蝦夷地の原住民やツングースに似ている。彼はクワイアーのトレブルで「前列の、いつもカガセンパイの左隣で歌っています」と日本語で教えてくれた。他の少年たちと同じように、短いインディゴ・ブルーのキモノにハイキング用の黒いちょっとオーバーサイズのキャハン(ゲートル)とタビ(先が2つに割れたソックス)とゾーリ(ワラジ)を履いている。巻き毛の髪の手入れはおざなりでやかましい感じだが、全体的にスタイルが良く見栄えがした。私の名前を問うと、ちょっとイイ加減なプロナウンスではあるがきちんと返答があり、今度は私が彼の名前を問うと、アラカワという姓で、幼名はホコサブローと告げた。腹の前のキモノのラペル(フトコロという名で、彼らはそれをポケットの代わりにしている)から、江戸の人々はこれを粋だというのか正直分からないがグレーのサヤガタ(スワスティカを連結させたデザイン。良いことが続きますようにという願いを込めたもの)柄のテヌグイ(コットンのハンド・チーフ)が少しだけ覗いていた。小さい悪戯っ子そうな少年だが、かれは歩きながらキョータローからここが「目黒のチンジュサマ」であると教えられてテヌグイの覗くフトコロの奥から子供用の小ぶりなガッサイフクロ(小型のポーチ)を引き出し、コインをとりだそうとした。

キョータローは、私には「チンジュサマ」の意味を教えてくれた。

「チン」は「鎮める」で「ジュ」は「守る」という漢字を書くのだそうである。大昔、各地にまだヤマト王国に従わない人々がファミリーを作って抵抗していたのを神様の力で鎮め、守る役割の神社ということだった。ポコちゃん少年がコインを取り出したのは、神様に差し上げるオサイセン(貢ぎ物)にするためだ。

 

整頓された境内。参詣の人々はひっきりなしに往来するにぎやかな場所だが、そういうわけで私にも子供たちが一定のグループを作って行動していることにようやく気が付いた。先ほどから私にぴったりとくっついて歩いているカガやポコちゃんはトレブルの子たちで、ブリティッシュを話すリーダーの少年が常に必ず随伴して見守っている。一方、富士山のスケッチをしていたあの絵の上手な男の子(チューバイ・セージロー)が行動を共にしているのはミッド・ハイレンジのグループ。それ以外の子はロー・レンジの少年たちだった。この神社はゲート(トリイ)をくぐるまでに数段の階段。さらに神のおわします主たるパヴィリオン(本殿)の手前で数段上り、最後のお参りをするトップレヴェル(ポコちゃんの用意していた貢物のコインを投入する木製オファリング・ボックス(持ち運びができないよう大型にした献金箱…サイセンバコと呼ぶ)が設置されている場所で、さらに白木の階段を数段上がるという上手い設計になっている。私たちはステップを上るたびに神のおわします位置へと段階を踏んで上ってゆき、心持も高まり、次第に神と対話する敬虔な気持ちへとレヴェルアップできるようだった。私が子供たちのグルーピングに気が付いたのは、彼らが一番上のレヴェルへ進みあがるのは、バラバラで思い思いのタイミングではなく、必ずその3つのグループ毎なのだ。ほかのグループの子は最後の階段の下で待ち、自分たちのグループの礼拝が済めば一列で下のレヴェルへ降りて広いところで楽しそうに待っている。彼らはお祈りの順番が周ってくると、まず軽く頭を下げてオファリング・ボックス(サイセンバコ)に個々にコインを投入するが、次にグループで心を合わせカシワ手を打ち、合掌し、今度は一人ひとりの心の中で祈りの言葉を念じる。この位置にはたくさんの人が立てるわけではなく、ほかの人は順番を守って待っている。順番を守るところはいかにも日本人的だが、少年たちはそのことをよくわきまえており、自分たちが一人一人そこを占拠するのではなく、グループ毎、一度のタイミングで祈って済まそうと考えたのである。そうすれば場所の占有は一人分の時間で済むからである。彼らはそうして3人分の時間で祈って下りてきた。彼らはいかにも清々しそうな表情で見ていても気持ちがよかった。

 

私たち一行はクランクのような行程を踏み、おトリ様の正面エントランスを下りて右に進路をとった。

おそらく南もしくは南東の方角で、オフドー様の門前の町の方角である。私の感覚で言うと、タイコバシを下りて直進し、商店の並ぶ門前町に直通するようになっていたらすっきりすると思うのだが、実際はそうなっていないのだ。オフドー様のニオウモン(おっかない顔をした筋肉隆々の一対の威嚇的なセキュリティー門番像の立つゲート)は南もしくは南東の方に向けて開いており、参詣者はタイコバシを下りて直進すると先ず南北に通ったアーケードへ差し当たる。このアーケードはしばらく行くと西向きに折れ、最後、さらに右へ折れてニオウモン(オフドーさまの入り口)へ達する。どうしてこんな面倒な迷路のような道を通しているのか、私にはさっぱりわからない。シッキーは「故意にではないか」と言っていた。トノさまのお城に通じる道によくみられる構造だが、敵の軍隊がなだれ込んできたとき、なるべく手間を取らせるように(そして角で待ち受けて撃退できるように)道を迷路状にしてあるという。お寺の場合、敵というのは悪霊や魔物の一群で、彼らがオフドーさまに悪さをしにくいよう、あえて道をまっすぐにしていないのではないかと教えてくれた。そして私たちはオフドーさまを困らせる魔物よろしく、帰り道ではあったが、その迷路の門前に立ち並んだ店々にいちいち自ら捕縛されなにがしかのお金を払ったり、そうではなくても時間を使ったりしたのだった。

 

オフドーさまのゴホンゾンは当然オフドー様だが、その敷地はさまざまな神仏パヴィリオンのコンプレックスである。完全に数え切ったわけではないが、私が数えただけでも37もの小さな祠(ほこら)があって、人々はその全てかもしくは自分が拝みたい神を選んでおがんでいた(それ以外の、たとえば沐浴の施設や参詣者にお茶をふるまう施設が13ほど点在しており、全体で50もの建物でおフドーさまは成立している)。門に設置された筋肉隆々の一対の門番の像の間を抜けると、仏教、インドやネパールの土着宗教、シナの宗教、日本の神様がた、江戸の人々に人気の偉人、(なかにはスモールポックス(天然痘)感染避けを祈るパヴィリオンまである!?)とバラエティーに富んだ対象を拝む祈りの場が一つの丘のそこらじゅうに散在し小道や階段で接続されている。私が興味を持ったのは、リュウセンジという寺の名前の由来になったトッコノタキという、美しい石垣で囲まれ、池の中央にトーローのようなモニュメントのあるクリーン・コールド・ウォーター・フォールと、マエフドーというサブスティテュートなおフドーさまの小さなパヴィリオンだった。

「これは、明らかなムサシノ・ダイチの東の終点の1箇所に湧き出たフクリュースイです。カントー・ロームに降ったか流れた雨水が、それで濾過され粘土や岩盤層にたまってここまで流れてきたんです。」

一人でいることが多いサクダイラが突然わたしのところへやってきて、トッコノタキをそう説明した。

どうも地質学の講釈のようだが、わたしには不安内なテクニカルタームばかりで意味がわかりかねる。

「だから、ここはオフドーさまができる前の大昔からヒトが集まって、この水で農作物を作ったり、飲み水をめあてに村を作ったりしていたはずなんです。」

彼は次いだ。この前史的な推論は大変面白いが、おそらく的を得ていたと思う。現在、江戸に暮らす多くの人々がここをめざし、この水に触れるためにやってくる。大昔の人々がこの水を神の恵みであると思った思索は今でもまだ厳然としてここに残っている。

やってきた男たちは服を脱ぎ、フンドシ(男性用の下着)だけでミズゴリをする。トッコノタキの水を浴びて体を清め、心もまた清めようとする日本的なバプテスマの儀式だ。彼らはこれが大好きであるが、クワイアーの少年たちはそれを羨ましそうに眺めて終わる。

マエフドーの方はトッコノタキの西側に隣接する小さな丘の上のこぢんまりとした清楚で明るいチャンバー・ホールである。

ここにはオフドーさまの複製のようなものが祀られていて、最初子供達も私もこれは不要な施設なのではないかと首を傾げてお参りをした。

「ばか!ゆくゆくは本殿よか古いトーキョートシテーユーケーブンカザイ(発音ママ)になるんだぞ!」

と、ぽっちゃりしたカマヤ・サクノシンが言った。

隣にいたトナミ・カツノリがサクノシンを睨んだ。禁句だったようだ。

「フドーマエって、トーキューメグロセン(発音ママ)にあるよね。」

「ちげーよ!フドーマエじゃなくて、マエフドー。…黙って乗ってても遠くウラワミソノとか海老名に行っちゃったり西ケ原で降りて団子屋へいきなり聖地巡礼食い倒れの旅へ行ったりしねーから!おかしな刑事的な?!」

「そうそう!あそこ、お赤飯系が抜群に美味しいんだよネ!」

「いい加減にしろよ!全然関係無いダロ!まったく!」カツノリがサクノシンを再び睨んだ。

いやはや、彼らの会話は何を言っているのかさっぱりわからない。

通訳のシッキーは、「おそらく…」と前置きし、オフドーさまの本殿がショーグンさまなどの参拝で立ち入れない場合、庶民はマエフドーを代わりに拝んで済ますのではないかとのことだった。こちらは決して突飛な推論ではない。

私たちは慌ててオフドーさまの本殿への階段を駆け上がり、それから辺りを見回して偉いお方の来訪がないことを確認して安心し、ゆっくりとオフドーさまのご本尊を拝んだ。

 

「僕は、『寶舩七福話』を紹介します。」

少年は、ブルーグレーの表紙に和綴された薄いブックレットを右上の角、左下の角それぞれ小さな指3・4本で摘まむように握って話し始めた。腰立不動尊の愛らしい小丘の斜面に1ダースの子たちは参拝客の邪魔にならぬよう、ちょこんと尻を落とし、ブックレットを持ったサガミ少年が一番ふもと側に立って話を始めた。その傍らには横にした右掌へ懐中時計を据えた私。彼らの境内でのおびただしいパヴィリオン巡りやオミクジ(聖なるロット)の小ギャンブル熱に辟易としはじめ、時を確かめにちらりとポケットから時計を取り出した私が運の尽き。彼らはそれを目ざとく見抜き、計時を要するゲームはないかと頭をひねった。

「ねぇ、ビブリオ・バトルしようぜ!」

ビブリオ・バトル…というのはいかなる拳闘か?

biblioはカスティージャ語かポルトガル語で、バトルは英語のその通りの語意だ。『聖書の戦い』というものがどういうバトルであるのかを知らない私は躊躇した。聞くとbiblioというのはバイブルではなくbibliographyの略であるという。5分間を計時してくれたら、どちらの図書をより読みたくなったかを皆で判定するという。ゲームらしい。少年たちのうち、この小旅行のために懐へ「本」を忍ばせて持ってきている者は5人もいた。驚いている私の表情を読んで、フカヤがすぐに「クワイアーというのは長いタイミングを待つことも仕事のうちであるために、時間つぶしのために本を持ち歩いているのはごく普通にあることだ」と教えた。カガ・キョータローが立候補し、サガミ少年の持つ本に彼らは興味を示した。サガミ・リヒトが前表紙をさらりとめくると、そこにはコメダワラを並々と積載したホカケブネの絵がフジさんを背景に前途洋々出港していく図柄がくっきりと刷り上げられている。少年たちは「おおー!」と歓声をあげ、リヒト少年は「岡固存作、渓齋英泉画。文政5年刊。」と紹介した。文政5年というのは1822年にあたる。オランダ商館にシーボルト氏が着任した頃合いである。ただ、このブックレットに出版者は書かれていないらしい。

「皆さんは、宝物を持っていますか?持っていると思う人は手を挙げてください。」

彼が問うて数秒待つと十名に近い少年が挙手をした。

「ところで、この中に、宝物はモノじゃなくてヒトだという子もいますか?」

すると、腰立不動の丘の椎の木の木陰で、キモノの袖口をセルリアンブルーにたるませて、まっすぐに柔らかく美しい腕を立てた者が2人いた。カガとアオケンだ。

「この本は、タカラブネと7人の面白い神様を宝物にして説明した本なんです。これを読んだら、みんなもきっとヒトも船も宝物に思えてきます!本を選んだ理由には、僕もほとんどの子と同じように、宝物ってモノっていうんだから、ヒトじゃないよね…と思い込んでいたのをこの本を見て変わったからです。」

宝船に乗っている7人は、バラモン教や道教や仏教の神様がたの混成チームだ。リヒトは後半「質問コーナー」で年下の者から彼らの来歴を尋ねられ、「ともかく縁起の良い神様たちを集めて、お正月に今年がよい1年になるようにした宝物」と答えていた。ともかくハッピーになれるのであれば、それがどんな宗教の神であろうとかまわないといういかにも日本人らしい信仰心である。

こういうこともあって、私はビブリオバトルという子供たちの遊びに楽しく引き込まれた。彼はこの本の特徴というか利点を「ほとんどの漢字の横にフリガナが印刷されている」とアピールしていたが、私のような者にはそのご親切なフリガナさえ筆記体で読めない。

一方のカガは『東海道中膝栗毛發端』(トウカイドウチュウヒザクリゲノハジマリ)という薄汚れたオレンジ色の本だ。ジッペンシャイックという作者で、享和年間に通油町(トオリアブラ町 大伝馬町の辺りだ)の栄邑堂という店が出版したものだ。これは下層民に大人気の『東海道中膝栗毛』の前日譚(日本では下層民たちがコミカルなノベルスを夢中になって買い求め読み漁るのだ。)であり、彼らがどういう経緯で東海道抱腹絶倒の旅に出発したのかを記しているらしい。

「僕がこの本をお勧めする理由は3つのビックリを味わえるからです。」

カガ少年らしい、聞く人々を楽しませようとする話が始まった。少年たちはすでに引き込まれ、丘の地べたに尻をつき、ゲートル(キャハン)の膝をピカピカと立てて話を聞いている。

「一つは最初の人物プロフィール紹介のページで、実はキタさんがカゲマ(「ゲイの売春夫」と彼は説明していた)だったということが明らかにされます。ヤジさんとキタさんは、あっけらかんと同性愛者だったのです。もう一つのビックリは、たくさん人が簡単に死んじゃうのに、みんなケロッとしていること。最後は、『東海道中膝栗毛』は8つの物語のサーガなんですが、この『發端(はじまり)』が一番最後に発表されているんです!」

子供たちの反応は理解不能のもので、

「すっげ!スターウォーズ(発音ママ)っぽくね?!」「キャー!あのダースベイダー(発音ママ)にも俺らみたく可愛い子供時代があったんですよねぇ」と大盛り上がりである。

「僕も実はこの本をソーシ屋(ブックショップのアメリカ植民地ふうの使い方)でほかの膝栗毛といっしょに見つけたのですが、ほかの膝栗毛が10年くらい前の古い本なのに、『發端(はじまり)』が一番新しくてびっくりしました。」とカガは続けた。

日本にやってきてから、私は勉強のためにヤジキタの第8巻をグラバー商会に務める知人に読んでもらっていたが、物語の人気はかなりのものだったようで「これ以上の続巻の刊行は(プリントが追いつかなくなるので)こちらからお断りする」という悲鳴のような出版人(栄邑堂)告知が上巻の巻頭に彫られている。

「キミもこの本を読んでビックリしてみませんか?僕はみんなが楽しい時間を過ごせるよう、この『東海道中膝栗毛發端』(トウカイドウチュウヒザクリゲノハジマリ)をぜひ読んでくれることをおススメします!」と言ってまとめた。

一番左の方にいる誰かが「題名が『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』みたい…」と言ったので子供らは笑った。「そりゃアンパンマン少年合唱団だろ?」とフカヤ少年が意味不明のクギを刺した。「イラン(ペルシャの別名)のテレビ(発音ママ)はアンパンマンの顔にモザイクがかかるの知ってる?」「オラも学校便りの写真で顔にモザイクかけられた…オギノパンの工場の見学写真で。やっぱ揚げパン最高!」「♪Petit Prince…Petit Prince…lululululu」「ま、ルックスじゃかなり負けるよ!仕方ないだろ!」彼らはもうどうしようもないくらいの大騒ぎだ。

アオケン少年が彼らしい真摯さで

「それではこれから質問タイムです。」と声をかけると3-4人の年かさの言った子がサッと手を挙げた。

「二人に質問です。その本の中で一番好きなのはだれですか?」

これは定番の質問だったようで、先発のサガミから立て板に水の勢いで返事が返ってきた。

「福禄寿さんです。背が低く、長頭症で、耳たぶが大きく垂れていて外見は明らかな身体障碍者(発音ママ ハンディキャップトという意味だそうだ)です。この本にもそんな様子が面白おかしく挿絵で書かれています。でも、このおじいさんはお供に鶴と亀を連れていて、名前は『福』とお給料を意味する『禄』と、長生きの長寿を表す『寿』です。ハッピーをいっぱい連れてくるおじいさんなんです。身体障碍者を、幸せをかなえてくれる素敵なアリガタイ人と考えるのは、ほかにも大きな頭で福助という小人症の男の人が有名ですが、そういう大らかさがみんなも良いとは思いませんか?」

「僕はヤジさんとキタさん、二人とも大好きです。みんなもそうなんじゃありませんか?だって、トイレの下駄を履いて入って最新式のお風呂(バスタブ)の底を壊しちゃって火傷したり、すっぽんに指をかまれたり、頬かむりのつもりで頭に巻いたのがフンドシだったり、なんだかお間抜けで痛い失敗ばかり。それを江戸から大阪までずっとやり続けるんです。」と、カガ。

サガミはまじめに語り、一方のカガはひたすら「どうです?おもしろいでしょう?」と攻めてくる。

「この本を読んでやってみた事を教えてください。」という次のチューバイ(スケッチ少年)の問いにも、サガミが、「本を枕の下に敷いて寝ました」と答え、カガは「二人のこんな間抜けなこと、やってみようなんて絶対思いませんよ!」と冷静に言って、こちらも子供たちの大笑いを誘った。

こうしておフドーさんの境内のたもとの椎の木の下で展開されたビブリオ・バトルの終わり、「どちらの本を読みたいですか?」と聞かれレイズハンズした少年たちのジャッジメントはカガキョータローの圧勝であった。

 

🪭🪭🪭めぐろ みんなのうた 後編   へつづく>>>