長女が防災について書くプリントを

やっているので、思い出しついでに書きます。


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3.11当日は都内で仕事。

 

免振耐震構造のホテルに併設されている

職場だったため、建物が壊れることは

無かったが、揺れがものすごくて、

外からホテルを見ていた人たちからは、

 

「こんなに揺れて大丈夫なの!?」と

思われていたそうです。

グネングネンに揺れていたそうです。

 

あの揺れで、職場の人はみんな「船酔い」状態。

キャビネットやコピー機が動きました。

 

それからすぐにテレビをつけて、大津波が来る情報で

東北出身、太平洋沿岸出身者がテレビにかじりついていた。

 

私は秘書業務が忙しく、役員たちと翌週のスケジュール

が中止になる可能性などを話し合い。

 

私はテレビは観られず。

 

後日聞いたが、生中継の津波の映像で、人や車が波にのまれている

ところが映し出され、泣き出す職員もいたそうだ。

 

総務は忙しかった。

ホテルに宿泊する人、徒歩で帰宅する人、

そのまま仕事をして職場で過ごす人など、

とりまとめに苦労。

 

地震発生から3時間経過し

18時になり、総務課も退出が始まり、

夫がM区からC区まで30分かけて歩いて

私を迎えに来てくれた。

 

受付に来た夫を上司や同僚に紹介し、

非常食を持たされ、職場を後にした。

 

当時、我が家には、老犬と鳥がおり、

埼玉まで歩いて帰る選択をした。

 

そこから8時間。

 

帰宅困難者でひしめく都内を歩き、池袋まで到着し、

埼玉県に入り、

途中停電で真っ暗な道を歩き、壮絶な帰路。

 

日本人は真面目だ。

皆、あの混雑状態で、列を乱さず歩ける。

押す人もいない。

寡黙。

ここでどう足掻こうと無駄だと分かっている。

 

スーパーのトイレに並んだら、妊婦さんがいて

妊婦さんを優先させた。偉い。

 

交番では警官が道案内をし大行列。

 

少し開けた場所で休憩をすると、

他の人たちもつられて座り込む。

 

無言だが、みんな目指すは家。

 

歩き途中、東北の実家に電話をした。

母が電話に出た。

ガスが止まっているそうだ。

津波が到達するような場所ではないため

安心だが、岩手の親戚たちが心配だという。

 

夫の実家にも電話。

義母が出た。

津波がギリギリ到達しなかったそうだ。

余震が来た場合、津波が到達しそうな場合、

いざとなれば近所の警官の住人が

車で連れ出してくれると言ってくれたと。

高齢者は地域の手助けが必須だ。

 

停電地帯を抜けると、あと数キロで

我が家のところまできた。深夜2時近く。

 

ちょうど空車のタクシーが来て、乗車。

足が棒になって、ようやく家に帰れると実感。

 

タクシーの運転手さんも都内から走ってきて

さっきお客さんを下したところだが、

どうやって都内に戻ろうかと。

「今日は帰れないでしょうね」とポツリ。

 

家の前について、運転手さんに

私たちの食糧(缶コーヒー、ビーフジャーキー、

おにぎりなど)を差し上げた。

 

近所を見渡すと、倒壊しているような家は無い。

 

家に入ると、外犬だった愛犬が欠伸をして

お出迎え。

すぐお散歩に行こう!と嬉しそう。

動物たちが無事で安心。

 

家の中も時計が一個落ちただけで、

鳥かごも無事。

愛鳥が眠そうにしていた。

 

埼玉県内でも地盤が固い場所だったからか、

揺れはひどくなかったらしい。

 

足は棒だが、犬の散歩だけは行った。

東北が悲惨なことになっていると

ニュースで知るのは翌日の朝から。

 

この時は、まだ平常心でいられた気がする。