「どうぞ」
と一礼して去っていくソムリエの背中を見送ってから、彼女は店内を見渡した。
テーブル、椅子、シャンデリア……ひと目見れば、その全てが庶民に手の届かない高級品であることが分かる。食事と落ち着いた会話を楽しんでいる客たちも、この店に相応しいランクの方々なのだろう。
「ふぅ……」
彼女は誰にも届かないため息を一つついた。裕福な家庭に生まれ、安楽な人生を送っている彼らは想像したことがあるのだろうか、今この瞬間にも飢え、傷つき、苦しんでいる人々が数多く存在していることを。そして、そんな人々のために命をかけて戦っている者がいることを……
彼女は小さくかぶりを振った。今は余計なことを考えている場合ではない。今、自分はここで為すべき大きな仕事を控えているのではないか。雑念に捕らわれていてはミスを招く結果になりかねない。
仕事は完璧にこなす……それが彼女の矜持であり、自分で決めた生き方なのだ。
それが表の仕事であれ、裏の仕事であれ。
彼女はワイングラスを取り上げ、芳香を嗅いだ……瞬間、圧倒的な美を備えた顔が、ほんの僅かに曇る。
丁度そのタイミングで、一人の男が店内に姿を現した。
「あら〜、100億$$$の歌姫ともあろう方が一人でお食事?」
黒い髪の一部に緑のメッシュを入れた男は、彼女のテーブルに近づいてきて、妙に女性っぽい口調で話しかけてきた。あまり趣味の良いとは思えないスーツだが、どこか胡散臭い男にはよく似合っている。
「こんばんは、ミスターヴィンセント。この度のお招きには感謝いたしますわ」
立ち上がり、豪奢な金髪を揺らしながら彼女は完璧なお辞儀をしてみせた。相手を蕩けさせてしまいそうな笑みには、それこそ100億$$$の価値があるかもしれない。
「このお店も、とっても素敵」
「そう? ありがと。でも……さっきは少し不満そうに見えたけど? ミス・ファルファラ」
ヴィンセントの言葉に、ファルファラは一瞬だけスッと眼を細めた。あの距離から僅かな表情の曇りをみぬくとは只者ではない。さすがに『ジョカの火薬庫』の異名を持つだけのことはある。
内心の警戒心を悟られぬよう、笑顔を浮かべたままファルファラはテーブルの上のワイングラスを取り上げてヴィンセントに差し出した。
「ヴィンテージ(収穫年)が違うわ」
怪訝な表情でグラスを受け取ったヴィンセントはその香りを嗅いで……「チッ」と舌打ちした。
「申し訳ありません、ミス・ファルファラ……あの男は即刻クビに致しましょう。アタシの店に二流品は不要ですものね」
ヴィンセントは慇懃に頭を下げる。だがファルファラは
「ふーん」
と訝しむような声を上げただけだった。
「……何か?」
ヴィンセントの声が1オクターブ低くなる。
「いえ、わざとなのかと思っただけ」
「へぇ、あのソムリエが? 何のために」
「私に近づくきっかけを作るために……あなたが」
「ほう」とヴィンセントは感嘆の声を上げた。
「つまり、アタシが命じた、と?」
「そう言ったつもりよ」
ファルファラの言葉に、ヴィンセントの目つきが変わった。鋭い眼差しに、抜き身のナイフを思わせる危険な光が宿る。
「フン……興行主に挨拶の一つもないどこかの歌姫様のためにわざわざ出向いてやったんだ。もうちょっと愛想よくしても罰はあたらねぇんじゃないか? あぁ?」
目つきどころか、口調もガラリと変わっている。暴力と陰謀にまみれた世界で生きる者特有のそれに。
だが、ファルファラの表情は変わらない。彼女もまた、いくつもの修羅場をくぐり抜けて生きてきたのだ。今さら暴力や恫喝に怯むはずもないだろう。
「それは失礼したわ。でも、今は余計なことに神経を使いたくないの。きっと明日は、ステージの上で強敵と戦わないといけないから」
『 余計なこと』呼ばわりされたヴィンセントの目つきが、ますます険しくなっていく。テーブルの上で握り締められた拳がブルブルと震えだす。今にも『火薬庫』が爆発しそうだ。
「強敵だぁ? てめぇ何言って……」
だが、その時だった。
「あ、あの……ファルファラさんですよね!」
場違いな女の子の声が二人の間に割って入った
(╭☞•́⍛•̀)╭☞ つづく

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