松平俊子・大日茶道協会初代会長について、
侯爵鍋島直大の六女として永田町に生まれました。鍋島邸は今の総理大臣官邸の場所に
明治25年三階建の洋館を建てて、明治天皇、皇太后が行幸啓になられたこともありました。
昭和2年には文部省の財団法人生活改善同盟の理事として、女性の開放に立ち向かわれました。
大正12年関東大震災が発生後、赤十字病院で女性が働看護婦の先駆者となりました。
昭和5年関東大震災時に多額の援助を受けたアメリカに遣米答礼使としてフーバー大統領との
会見、ロックフェラー氏訪問しました。日本女性の品位は緊張状態にあったアメリカとの関係に
とても好感をもたれました。
昭和2年海外婦人協会を設立、昭和8年には、日満婦人会理事、11年には、航空婦人会会長
仏教婦人青年同盟理事、日蓮宗婦人会代表を務めていました。
文化の振興にも努めました。茶道では、雲伝心道流茶道会、華道では広山流、盆石では細川流
など支援を惜しみませんでした。
教育にも携わってきました。昭和7年昭和高等女学校の校長を引き受け、毎週作法の授業を
受け待ちました、戦後は昭和女子大学となり名誉学監を務めました。
それ以外に、社会活動は少年保護司の資格をとり、女性のための保護施設「娘の家」を設立しました。
昭和6年には、日本少年保護協会理事にもなられて、司法省から台湾出張も命じられ、敵の潜水艦が出馬つする中台湾に命がけでむきました。
俊子がいかなる気持ちで、社会事業に取り組んでいたかの記録があります。昭和8年日満協会の依頼で満州在住に向けて講演したのが、日本のラジオでも全国放送されました。新聞にも記載されました。
「昔、中国の高僧たちがインドへ仏法を求めて旅に出た時、砂漠の中では白骨を道しるべにしたと言います。
私も尊い心を自らものとするよう毎日努めております。たとえこの身が白骨と果てようとも、それが後に
それが後に続く皆様方の道標となるなら、喜んでこの身を捧げます
松平俊子は、松平家の本家筋である水戸家に嫁いだ。高松藩主頼聡と井伊直弼の息女千代姫である。
高松松平家に嫁したその日に、直弼に大老の命が下ったと言われている。幕末の混乱の中、
松平家の本家筋である水戸家の家来が桜田門の事件に加わったので、松平家を去った。明治になり千代子
を呼び戻した。