記録「 親友の死 」 | 皐月の50%はコラーゲンで出来ています。
この先、私がいつまでこのブログを続けるか分かりません
それでも、この先ここまで長文のブログを書くことはないと思います
日曜日、世間はお休みモードの中で読みたくない方もいると思います
本当に、凄く凄く、長い私的な日記です


読み進めるかは、お任せします


ブログに書くことではないでしょう
だからと言って、自分の日記にはおさまりきらない位
沢山の、愛を体験したこの5年間を書かずに2014年を終わらせる事が
出来ないな、そんな気持ちでずっとこの5か月を過ごしました


2014年5月30日 私の小学校からの大親友が5年間の闘病を終え永眠しました
35歳でした

私の母が、2005年の12月に亡くなって
そこから4年して、同窓会がありました
久々の同級生、親友とは会っていたものの
集まりの会話の中で「みんな乳癌検診行ってほしいな」なんて
私がボソッと言った言葉を、親友は持ち帰って、乳癌が見つかりました

子供が2人
20歳で子供を産んだ彼女
未婚の道を選んで、雨が酷い日に電話が鳴って

「さっちゃん、あたし産むことにしたから」

相談じゃなく、結論だった
私は「そっか、うん」と答えた
いつでも彼女は決意表明を敬礼しながらするような
そんな女性でした

もう1人の親友、ちーばはその決意に泣きながら「私が父親になるから」と
彼女に言ったそうだ
それが、凄く嬉しかった事、励みになった事
のちに何度も口にしてた

私はちょうど、半分東京でレッスンやオーディションを受ける日々
彼女は子育てに奮闘していて、遊びもそっちのけで
お互い勝手に戦友だと、支えにしていたのも分かっていた


2012年 5月2人で韓国旅行に出かけた
流行のK-POPそっちのけで
食い倒れツアー
抗がん剤の治療を受けてる様子もない程
私より笑って、私より良く食べて
そんな彼女が、お風呂に入る時に

「あのさ、カツラ取ってもいい?」と聞いてきた

あぁ、病気してるんだ
そうだったんだな
情けないけど、シャワーの音を聞きながら
3年も闘病している事をその時に妙に実感した

帰りの空港でお茶をしているときに
大型ビジョンにミュージックビデオが流れていて
彼女が

「あ~、BIG BANGじゃーん。あたし大好きなんだけど。
さっちゃんさー、いつか共演してよ。もしさっちゃんが一緒に歌ってるの聴いたら
大爆笑なんだけど(笑)でも、嬉しいな、観たい」と、テンション高めに言った。

私は、正直言うとK-POPには全く興味もなく
どちらかと言うと「何この変な衣装、ないない」なんて、答えた

その時に流れていたMVが



この曲
日本に戻って、東京の友達が誕生日祝いをあげるから
何がいい?と聞いてくれて
私は「BIG BANGてグループのCDが欲しい」って答えた

バカだと思うかもしれないし
実際、バカだと自分でも思うけど
「もし、私が本気でBIG BANGと共演したら親友は本当に大爆笑するかもしれない。
それも1つの奇跡なら、彼女の病気だって奇跡的に治るかもしれない」

なんて、本気で思ってしまって
もちろん親友には内緒で、勝手にBIG BANGのCDを全部集めて
なんと、翌週にLIVEがあってチケット取れたら行ってみるか
なんて思ったら、取れてしまって

今思うと、不安だったのでしょう
母の時に感じたあの、残量がなくなって行くような
時間が少なくなっていく不安

でも、本気でした
その日から、ほぼ彼らのLIVEを福岡以外全日程行きました
自分で彼らのカヴァー歌ったCDを持って
本気で渡すつもりで

憑りつかれたように
皐月ではなく、籾山五月として動いていました

この夢を、叶えたい気持ちを
ウワノソラーズさんに話した



とある曲を、女性目線に歌詞を変えて
アンサーソングとして、それをBIG BANGに渡したい
そんな話をしていたら、嘘みたいだけど
渋谷の大画面に、その曲のPVが流れ始めた

「さっちゃん、いいよ。やろうやろう」

力が抜けてしまう位、病気治るよって言われたみたいで
その日から、沢山の、本当に本当に沢山の方々の力を頂いた
ここには、書けない方もいますが



MVの撮影をしてくれた花豆 仁ちゃん
英語詞を訳して下さった、仁ちゃんのパパ
ありがとうございました



LIVE一緒に、付き合ってくれたかおりん、いわわ、ありがとう



BIG BANG名古屋公演で、CDを一緒に作ってくれた
平岩さん、ゆみちゃん
プライベートな事までお力添えありがとうございました



韓国語がさっぱり分からなくて
歌詞に、手紙を訳してくれた韓国人の友人、ヨンアありがとう



LIVEにも、涙にも付き合ってくれた
まいちゃん、屋代さんもありがとう



映像を編集してくれた、木田君ありがとう



CDを渡せるように沢山の人にコンタクトとってくれたさりちゃん
ありがとう



寒い中、これを渡したいんだけど変かな?って頼んで
外で歌を聴いてくれた、まぁいちゃん、ペソ
ありがとう



何だかよく分からない私の感情をテラス席で2時間近く聞いて下さって
音源やPV撮影のご協力くださった後藤冬樹さん、ありがとうございます



今年の6月のLIVEで親友の報告をして一緒にステージに臨んでくれた
ピアノのおかん、本番後楽屋で涙を見せて背中を押してくれてありがとう



MVのヘアメイクを担当してくれた中田君
一緒にLIVEも観に行ってくれて、ありがとう



1人で、韓国のBIG BANGの事務所にCDも持っていきました



真昼の月夜の太陽の店長、ユーコちゃんにも随分助けて頂きました
ありがとうございます



どうにかこうにか、間接的にですが音源や、MVが完成して
渡す事が出来ました



2013年11月、深夜に撮影して、本当に寒くて
一緒に歌ってくれた岩瀬明日香ちゃん、ありがとう

BIG BANGのリーダーG-DRAGONさんのソロ曲
「Who you?」原曲


皐月の、彼女目線で歌詞を書き変えた
「Who you?」カヴァー曲


BIG BANGのリーダーG-DRAGONさんのソロ曲
「THAT XX (그 XX)」原曲


皐月の、彼女目線で歌詞を書き変えた
「THAT XX (그 XX)」カヴァー曲


沢山の人に聴いてもらう為のものでもなく
メンバーの方々関係者の方々に向けて作っていたけど

2013年12月、会場でCDを渡して(本人にではありません)
すぐに親友に1年半の事を話した
私の前で泣いた事がない彼女が電話越しに
泣きながら
「あんな、冗談で言ったような事本気にしたの?」
「来年、一緒にまた韓国行けるように、治療に向かうよさっちゃんに負けてらんない」

と、言ってくれた
一緒にはステージに立てなかったけど
私は、彼女に向けて作りたかったんだなってその時に気付いて

でも言わせてしまったのかもしれない
今でも、ただの私のエゴだった
押し付けだったのかもしれない
そう、思う

けれど、そこからの5か月
彼女は、懸命でした
入退院を繰り返しながらも
私も月に1度、群馬に帰って必ず会って

そんな彼女が3月の終わり
「連れて行きたい場所がある、もう予約したから」
と、連れて行ってくれた山間のレストラン



静かな、時間だった



何故かって、彼女が咳が出て声も出ない
口内炎が酷くて、食事もままならなかったから



お皿を下げる店員さんに申し訳なさそうで



こんなにも、悲しい食卓は二度とないと思った
それでも、秋に韓国に行く予定を2人でたてた
雑誌を観に行って
また、あそこに行こうって話した


ここからは、1番書きたくないとを書かないといけない
記録しておきたい
どうしても忘れてしまうのが人間だから
記録を、残しておきたいです

5月31日、私は元事務所の田中社長に
デビュー10周年のお祝いと誕生日のお祝いで
築地にお寿司をご馳走になる予定だった

着信で光る携帯を見て、もう1人の親友ちーばの着歴を見て
すぐに悟った

でも、すぐに折り返さずシャワーを浴びた
少しでも先延ばしにしたくて
ろくに洗いもせずにちーばに折り返した

「五月、ももじが死んじゃった」
「そっか」

ちーばは泣いていたけど、私は泣かずに
親友のももじがいる場所をメモった

すぐに姉に電話をかけて
「なに、どしたの?今日休み?」
「うん、おねーももじが死んじゃった」

まるでちーばの言葉のオウム返しをして
糸が切れたみたいに泣いた、姉も泣いていた

迷った
社長のお祝いをどうしよう
カーテンを開けて空を見た、何気なく
抜けるみたいに嫌味みたいに綺麗な空を見て

「ももじ、行ってくるね」

何も言わずに、社長と築地でお寿司を頂いた
お昼で賑わう街に、このまま何もなかった事に
なるんじゃないかーって、大人げなくも冷静に



帰りに社長に、話した
「もう1件だけ、行くぞ。そしたら帰りな。」
私も弱いなと、思った。
黙っておけないなら行くべきじゃなかったのかもしれない。
でも、社長なりの「頑張ろう」を
曲で言うエンディング部分を弾くように
もう1件お店に行く事で、導いて下さった。

忘れないです、本当に感謝しています。

家に帰って、支度になってないような支度をして
電車に乗った。
車内で近づいてくる人がいた。
「さーつきちゃん、なにしてんの?」
元、鎌倉組。現、からす天狗のなかやんだった。

1度もこんな風に電車で会ったことないのに縁は不思議です。
暗い表情の私の多くは聞かずに「戻ったら連絡して」
と、1駅で着いた駅を降りて行った。

のちに、東京に戻って少し落ち着いてから中やんは
ビレッジバンガードへ連れて行ってくれた
「五月ちゃん、好きなもの買ってあげる。こーゆー時はね1人で買い物しちゃダメで、誰かと買い物して、一緒に選ぶんだよ、絶対それがいい」

彼らしいし、彼らしくない。そんな位嬉しかった、
この場をかりて、本当になかやんありがとう。
「肉を食おうぜ、元気になるから」そんな安易な考えも
心地よかったです。



忘れない日になりました。



この写真は、納骨の日だけど
正直どうやって帰ったかあまり31日の事は覚えていない。

15歳になる親友の娘から、親友のLINEから連絡があって
「さっちゃん、ママに会いに来られる?ママ待ってるからね」

一瞬親友から連絡が来たと思って、ドキッとして
その後すぐに「さっちゃん、あたし産む事にした」と言った
あの日から15年経って、立派に育てたな、娘はこんなに立派だよももじ

と、そこから1時間くらいずっと電車で泣いていた事だけ覚えている

迎えに来てくれた、姉夫婦
泣いてる私を隣で5歳の姪が
子供なりに慰めようとしてました

姉の車を借りて、親友の安置されてる部屋へ行った
扉を開けたらすぐに彼女は布団に横になってた

ご両親と、娘は遅くなってしまったので返っていたけど
お兄さん夫婦に出迎えられて

親友は、亡くなる1か月半前、私と食事をした時に言っていた
「今週末、お兄夫婦が帰ってくるんさ。子供たちの事ちゃんと頼むつもり。私が居なくなってもいいように。あと、来週韓国行ってくるよ、今日病院の帰りにさ、旅行会社寄って決めてきちゃった。秋に飛行機乗れるか分かんないからさ。」

私は「そっか、でも何かやめてよ整理してるみたいで。何弱気になってんの。」

バクバク良く食べて、ハキハキ話して。
私が良く知ってる、元気なももじが、最後に会った彼女の姿でした。

ハッキリしてて。
迷う前に行動で。
私を、私以上にいつも信じてくれて。
そんな彼女だから、5年闘えたし、生きたんです。

翌日、改めておじちゃんと、おばちゃんにも会いたくて
出向いた
沢山、話した



笑いながら
「こんな好きに生きてさ、本当にひっきりなしに友達が来て、この子はいつ友達作ってたんだか」ももじのママは、私の母が亡くなった時にお通夜で私の所飛んできて
泣きながら「さっちゃん、おばちゃんの所にいつだって帰っておいで」と言ってくれた
そんな人。そんな人の娘だからだよ、おばちゃん。そんな様な事、私は返した。

大丈夫だと思っていたのに、姉の家に戻って家族で食事に出かけた時に
車内で過呼吸になってしまって、制御が出来ない位涙が出た。
姉は「店で待ってるから、好きなだけ泣きな我慢しないで」と
車のカギを持たせてくれた



私が生まれ育った街、群馬県桐生市
ここから全てが始まって
有名になることとか、人気者になること
そんな事を恥ずかしみもなく言わせてくれた小さな町

東京での暮らしは、キツかったです
母のこともあって、余裕もなくて
友達もいなくて
好きだった音楽の世界も
私が思っていた世界ではなくて
もちろんだけど、ビジネスって事を目の当たりにした

そんな中で出会う人間関係にも疲れていた

「皐月は私に嫉妬してて、活動もうまく出来ないんだよ」
そんな風に言ってる事を、人づてに仲間だと思っていた人から聞いたり

「人がいいから、利用させて貰ったよ」

地元で思っていたような「仲間」の感覚を東京で見つける事は
私には、凄く難しかった


ですが、ここでご紹介させて頂いた面々
もちろん書ききれない位の方々に支えて頂いて
私が成立していたこと、今もしていること
そんな大きな答えを、親友は私に残してくれました



歌う



この1つのことに
この10年翻弄され、喜び、苦しみ
夢を追っているのか、夢に追われているのか
分からないまま生きていました

そして、今年
名古屋鶴舞で歌わせて頂いた時
そこのライブ会場のPAさんのお名前が

「ももじさん」だった
鳥肌がたってしまった

それに、単純にいい歌を歌えた

私は、この先もずっと
その瞬間1番に大切にしたいものを選ぼうと思えました

歌う
ではなく

生きる

その中で、歌うことも選びたい

こんなに、長い日記をどれくらいの方が読んで下さったか
定かではないですが
お付き合いくださって、心からありがとうございます

もし、内容は違えど苦しい状況の方もいらっしゃると思いますが
今日の空は雄大でした
毎日、毎日、必ず新しい1日を作ってくれています



そこに、いるのかな?
随分昔の写真だけど
いい写真を、載せて終わります

ももじ、書かせてくれてありがとう
私を親友に選んでくれて
本当に、ありがとう




五月より