人間が烏滸がましい一線を超える。

おこがましさ。それこそ神への冒涜とかバチが当たるとか、昔の人が言っていたこと。

いろんな分野でもう、その一線は超えてしまっている。とても不愉快だ。

 

現代の人間は人間中心に考えて過ぎている。烏滸がましい。

そしてあらゆるものを人間視点(擬人化してみたり)で見る。

そこに不快感を感じる。

私はネコが大好きだが、ネコはネコだ。

ネコの感覚と世界観があり、人間のものとは違う。

細かなことを言えば人間だって一人一人感覚も違うし違う世界に生きている。

「人間はこうだから、あなたもこうでしょ」と、んなわけないのに疑わないセンスも嫌いだ。

みんな同じなわけないではない。

もちろん、そんなのダメだと言っているわけではない。

私は『ダメを言わずイヤを言う』をコンセプトにした天才合宿をしているゆえ、

何かを否定したりはしない。ただセンスが嫌いなのだ。

ただの好き嫌いの話だと思って欲しい。

嫌いなものについて話す時、誰かのセンスを否定してしまうように捉えられることもあるが、

否定しているのではないことを分かって欲しい。

好き嫌いくらい自由に言いたいではないか。

ただ、言いにくいのは、そう。だから言い訳をしているのだ。

 

嫌いなものの奥には本当の理由がある。

例えば、私は丸い同じ大きさの石を連ねたブレスレットが嫌いだ。

あの、直径8~10ミリくらいの数珠的雰囲気をしたヤツだ。

幸運の石、みたいな感じで連なっている、洒落っ気のない感じが嫌いで。

ただ先日、霊感の強い人がそれを

(見た目は似ていても全然違うものなのかもしれない。)つけていた。

同じ大きさの玉が連なっているブレスレット。より数珠感の強い単色の(ズバリ数珠なのか?)。

それは不快ではなく、納得感があった。

そこに霊感をコントロールするような用途を感じたからだと思う。

私が感じていた不快感は、見た目の洒落っ気のない感じではなく、

これで幸運ゲット~♪みたいな用途と見た目のバランスなのかもしれない。

幸運ゲット系ならばその容姿ではないのでは?と言うムズ付きだったのかもしれない。

単に私のセンス上、そのバランスが嫌いなだけかもしれない。

あとは単純に似合っていないという点への違和感かもしれないし、

単純にその人のメンタリティがイヤなだけかもしれない。

自分のことかと傷つく人がいたらごめんなさい。

でも私のセンスに合わなかったからといって、

人生に何の損失もないから気にしないでね!と書いておく。

けっこうつけている人多いからさ、言いにくいな~と思っていたんだ。

でもただの好き嫌いだからねえ。

「私の好きなものを嫌いな人なんて嫌い!」って嫌われるのも仕方ないですな。

わざわざ嫌いなことなんか書かないで隠しておいたらいい話でもあるんだけど、

掘り下げたい件があるので、もっとライトな例えとして置いておくのだ。

私にしては慎重である。カウボーイハットが大嫌いと言う友人もいたなー。

仕方ないよね、嫌いなのはさ。

そんなに重いものじゃないと思うのよ、好き嫌いなんてさ。

「生ネギが嫌い」「ふ~ん」くらいの感じよ。

 

さて本題。ペットに対して「ママよ~」みたいに言っているのが、なんかキライ。

何でかを深く考えてみたことがなかったので、深く考えてみたくなったのだ。

『擬人化』がポイントなのだろうか?私もネコが大好きで、

一緒に暮らしていた中にはかなり仲のいいヤツもいた。

同レベルで喧嘩もしていた(?!)が今はもう大人になったので喧嘩はしない。

基本的に犬は苦手なのだが、何度も会って気心知れたらソイツとして好きにはなる。

犬やネコの枠を超えて、ソイツになるのも、擬人化なのだろうか。

でも、ネコはネコ、人間は人間、と思っている。

ネコとしてのソイツが好きで、人間ぽいところがあるから好きなわけでもない。

通じ合うところも『ネコのソイツと人間のオレ』として通じ合っている感じなのだ。

オレらは違う、まったく違う生き物だ。その上で好きなんだ。

「ママ」に深い意味はないのだろう。愛情を持って保護する者、って感じなのだろう。

マジで我が子と同じにみているのではないのだろう。

つまりマジで我が子と同じに見ているのだとしたら、私はイヤなのだろう。

人間とネコは違うよ。同じじゃないよ。私は蚊を叩くし、子どもとネコが溺れていたら子どもを助けるよ。

命の重さというのは変わらないものかも知れないけど、私には大事な命の順番があるのだ。

大人と子ども、どちらか片方の命しか選べないなら、子どもを選ぶ。私はそうなのだ。

そしてその感覚も大事なんだ。これは、何なんだろう?

 

書いてみて気づいたのは、多くの「ママ」を自称する人も

私と同じようにネコと人間が溺れていたら人間の子どもを助けるのだと思う。

中には他人の子どもよりも自分のネコを助ける人もいるかも知れないけど、それはイヤなんだな私。

これ大事な感覚なんだよな、自分の中で。他人の子どもよりも自分のネコの方が、

自分の人生にとって大切な人もいるだろう。

多数決や普通を基準にモノを言いたくないので、このような表現になっている。

 

多分私は「ママ」と自称する行為に、何かを投影している。

人類、特に現代の都会人の持つ歪みだ。孤独とも言える。

大袈裟になってきた感があるが、私の中の感覚としては繋がっているのだろう。

「ママ」というワードに、人との結びつきが希薄になった人間の孤独とか、

擬人化し過ぎる人間の烏滸がましさなんかを感じてしまうのだろう。

本人はもっと軽い感じで言っているだけなのに。

これは考えすぎる人間故にそう感じてしまうのだろう。

 

ペットに対して自分を「ママ」と言う人は多いから、実に触れにくい話題なのだ。

ごめんね。私がキライだからって氣にすることはない。

何かごちゃごちゃ考えちゃってイヤなんだね、くらいに思っていてくれたら幸いだ。

考えることは私にとって趣味なので、つい広げて散らかしがちなのだ。

そのうち氣にならなくなるかも知れない。

 

東日本大震災の時に、一緒に避難した友人はペットの陸亀を連れてきていた。

それが一番大きな荷物だった。それくらい亀に愛情のある人物だ。

持ち物も亀グッズばかりで亀愛の中で暮らしている感じである。

何かの話題で話していた時に、その友人が叫んだ。

「食うもんなかったら亀でも食うんじゃ~い!」と。

それを聞いた私は「こいつ、めっちゃ信用できるな」と感じた。

本質をついている!みたいな感覚だ。

このエピソードからも私の好き嫌いの嗜好が見える。

実際その時になって食えるか食えないかではなく『おこがましくない感じ』が好きだったのだと思う。

私たちは生き物で、何かを食べて生きている。

その基本を忘れていないところが好きなのだと思う。

そして自らの種の繁栄が大切なことなのである。

なかなか掘れてきた気がする。

 

何を殺し、何は殺さないのか。

食べるための殺しは良いけど、自分では殺さないのか。

本当は何も殺したくないけど、食べるためには仕方なく、

でも自分では殺したくないから誰かに殺してもらっているのか。

植物を刈り取るのは、殺しではないのか。

人間の子どもとネコが溺れていたら、どちらを助けるのか。

そしてそちらを助けた理由は何?

 

これらの問いにに対して正解はない。ただ好みはある。

結構根源的な部分での好みなのだと思う。

だから大切なんだ。

だからそれを感じると違和感が強いのだ。

どんな思想で何を選択してもいい。

でも圧倒的根源的好みというのは、私とっては揺るがし難いものなのだ。

 

ちなみに人から「ママ」と呼ばれるのもキライだ。「○○くんのママ」もキライ。

「○○くんのお母さん」は良い。

これに関してはもう、習慣からの好み以外の何でもない。

私が親をお母さんと呼んでいたから、違う習慣に慣れない違和感と、

なんか幼稚な感じがするのとでキライなだけだ。どうでも良いことだ。

ママって言われたら少しだけ不快なだけだ。すぐに消え去る瞬間的な不快。

自分がママって呼ぶ人も、これを聞いて少し不快になるかも知れないけど、

瞬間的に忘れて欲しい。どうでも良いことなんだ。

白い服が好き、黒い服が好き、ピンクの服が好き、

人それぞれであることが、私は好きだ。

人の好き嫌いは口出しすることでも自分いじめをする材料でもない。

ただそう、なだけのものなのだ。

 

気を使って書いたなー、珍しく。

きっと私も嫌われたくないのだ、好きな人には。

好きな人の中に玉のブレスレットの人とママの人がいて、

たまたまこれを読んで不快にさせたらイヤなのだろう。

だけど、今回は書いた。

もっとライトなことなのに、気を使ってしまう自分に対しての意味があるのかも知れない。

あまり複雑化してはいけないことなのかも知れない、好き嫌いって。

でも深いよね。深いとこ掘るのが『好き』なもんで。

 

好きなレコードを発掘する私

 

『すべてはベストなタイミングで用意されている』