ごきげんよう。えの字です。

 

“伊能忠敬界隈”というネットスラングがあるそうです。

1日に何万歩も歩く習慣のある人々を指すのだとか。

なんでも伊能忠敬界隈を名乗るには、本人が実際に歩いた距離に基づいて

1日あたり40km以上を歩くことが必要だそうです。

 

今この瞬間、私は別の意味で伊能忠敬界隈。

私の中で伊能忠敬がアツい!

伊能忠敬記念館に行ってみたい、と自宅からの行き方を調べるくらいの

にわかファンです。

 

というのもこちらの本を読んだから。

 

『一身二生 吉宗の遺言』太田俊明/著、日本経済新聞出版

 

タイトルの“一身二生(いっしんにしょう)とは、

一生の間に別々の人生を二回経験するという意味の言葉で、
出典は福沢諭吉の著作「文明論之概略」

 

また、ここでいう“吉宗の遺言”とは、

西洋天文学に基づく正しき暦と日本総図を完成させること。

真意は清にも西洋諸国にも負けない科学力を身に着けるところにあり、

暦と地図は国の科学力の水準を計る鏡です。

 

物語は日本総図を完成させた伊能忠敬とその師、

日本の太陽太陰暦を西洋の水準まで引き上げた天文学者である

高橋至時との人間関係を中心に展開します。

 

 

 

 

伊能忠敬は約17年間、約4万kmの測量旅を経験し、

日本初の実測による日本地図を作った人物として知られています。

 

そう。

何を成し遂げたのか、どうやってそれを叶えたのか、

一般的にはそこに注目が集まることが多いと思います。

 

成し遂げたいことを見つけて、「自分はこの道をいく」と腹に決める。

実はそこに至るまでが大変で、簡単にはいかないところ。

むしろそれを決めさえすればあとはやるだけ、とさえ言えるのではないか。

 

これがこの本を読んで私がメッセージとして受け取ったことです。

 

この物語では、人との出会いや、人生の出来事の積み重ねによって

日本地図を作るという大仕事に取り組むと本人が覚悟を決めるまでの

一筋縄ではいかない道のりが丁寧に描かれていて、

胸が熱くなる場面が何度もありました。

 

 

 

 

伊能忠敬はもともと地図が作りたかったわけではありません。

 

彼が魅せられたのは天文暦学。

天体の運行を観測して、正しい暦を作るという学問です。

 

神童と言われた子供時代に、寺子屋の師匠の導きで中国暦学に出会いますが、

家庭の事情もあり、18歳で暦学を棄て、千葉県の佐原の豪農に婿入りします。

 

彼には商売の才能がありました。

当主であった30余年の間に純利益を16倍以上に伸ばし、

婿入り前にはなかった金融業と米の先物取引を

本業である酒造と小作収入に並ぶ柱に育てた記録があります。

地元で頼りにされる大きな存在になりすぎたために

通常は40歳くらいで隠居するところ、

彼の隠居が叶ったのは50歳になってからでした。

 

ようやく隠居が出来た。

一度はあきらめた暦学に再び取り組める!

暦学史の中にどんな形でもいい、名を遺す、その一念で奮起しますが、

そこからも簡単ではありません。

 

佐原では名主として尊敬を集めていた忠敬も

学問の世界では身分の違いから田舎の百姓出の隠居と軽んじられ、

弟子入りを願い入れるも何度も門前払いをくらいます。

 

使える手は何でも使い、とうとう19歳年下の幕府天文方トップ

高橋至時(よしとき)への弟子入りを果たしました。

 

メキメキと実力をつけた忠敬でしたが、孤高の天才と呼ばれる

日本一の西洋天文学者である至時を間近にして

「学問(勉学)では、到底及ばぬ」

「自分が暦学で名をなすには、まずは天測技術で日本一を目指すべきだ」

と思うようになります。

 

忠敬や師の至時には正確な暦を作りたいという目標があり、

そのためには“地球全体の大きさを知る”必要がありました。

緯度1度の長さを測ることができれば、計算で地球全体の大きさを割り出せる

との考えからです。

 

「自分の天測技術をもってすれば緯度1度の長さがわかるかもしれない」

 

行動力のある忠敬は、自分が住んでいた深川黒江町と

幕府天文台のある浅草までの距離を歩いて測って計算をして、

緯度1度の長さを割り出してみせます。

 

しかし、至時には少なくとも江戸から蝦夷地くらいまでの距離を測らないと

正確な数値は得られないと突っぱねられます。

 

そこで思いついたのが、“蝦夷地の正確な地図を作ります”という名目で

幕府から蝦夷地までの距離を測る許可を得るアイディア。

当時、北方から迫っていたロシアの脅威に備えるため、

幕府が蝦夷地の地図を欲している点に目をつけたのでした。

 

ここが忠敬と地図作りとの関係の出発点。

自分の測量した緯度1度の長さを認めない師匠への反発心が原動力であり、

あくまでも地図は副産物でした。

 

 

 

…やっと忠敬と地図の結びつきまでたどり着いた。

ここまでですでに長い(;^ω^)

 

というわけで次回に続きます。