伊東温泉おもてな師マイスター試験に向けて~おさらいVol.4 | 伊豆・伊東市 障害者・高齢者・車椅子バリアフリー旅行          青いかば旅行社のブログ

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午前中に荒れ放題の家の掃除をして
朝布団を干しておいたら雪が降ってきたらしく
近所のオバサマが教えてくれて
大慌てで取り込むという大騒ぎに
殺気立った私を家族全員が手伝ってくれました
申し訳ない・・・

午後は少しこのブログを書き復習をしてみました

そしてあらかじめお詫びを・・・
このブログはおもてな師マイスター試験で覚える為に
資料を写しているのがほとんどで
読んで頂いている皆様に
読みやすい内容ではない事お許し下さいませ


東林寺

日本三大仇討ち物語と言われている曽我物語にも関係しますが
嫡男河津三郎祐泰曽我兄弟の父親)を弔う為伊東祐親
以前からあった久遠寺を再建したお寺です
伊東家の菩提寺でもあり、家継、祐親の位牌や
千鶴丸(八重姫の子供)の木像などが安置されています


境内を少し上がった小山(朝日山)の頂上に
河津三郎の墓曽我兄弟の供養塔があります
又坂道の傍らには三十三観音像が安置されています

当時、奥野ダムのある場所あたりで頼朝を慰める為の
巻狩りが行われ、その余興として河津三郎
工藤祐経の家来で大変強かった股野三郎と相撲を取りました
そこで河津三郎が勝ったのですが
それまでも工藤祐経伊東祐親の間で領地争い
揉めていたので、
祐経は祐親の嫡男の河津三郎が勝った事に
さらに怒りを覚え、家来に命じて祐親の暗殺計画を立て
その巻狩りの帰りに現在の伊東市赤沢にあった
椎の木三本あたりで河津三郎だけ射られ殺されました
それを恨んだ息子達が曽我物語にあるように
その後仇討ちをする事になりました

上記の通り、河津三郎はとても相撲が強く
相撲の四十八手の中のひとつの河津掛けでも有名で
昭和34年、日本相撲協会の時津風理事長(元双葉山)
栃錦若乃花朝潮の3横綱が来て
ここで土俵入りを奉納し、併せて相撲碑の除幕を行い
相撲中興の祖である河津三郎を讃えました


こちらは伊東七福神のひとつ「布袋」尊のお寺でもあります


伝・伊東祐親墓

伊東市大原町の高台にある五輪塔祐親の墓である
と言われていますがハッキリしない為タイトル通りとなっています


一番下の地輪に彫られた凡字は
薬研(やげん)彫り鎌倉初期のものと言われています
昭和54年市の文化財に指定され
大正4年の伊東町要覧では
「高さ8尺(2.5m)、数年前塚を改築してその半ばを埋め
今は上半四尺五寸(1.4m)」とあります

昭和55年には大学で中世史ご専攻の浩宮徳仁親王(現皇太子)
がこの墓を訪問し、墓地の傍に記念碑が建てられています




伊東祐親像

伊東市役所の敷地の一角にある物見塚公園内に
伊東祐親像はあります


現在のホテルのアンジンのあたりにあったようで
物見塚公園に移されました
以前物見の松(樹齢数百年)というのがあったのですが
現在は新しい松になっています
この物見の松は高台にあり、伊東を見渡せる土地でもあるので
伊東家があったのではないかという説もあります
この敷地内に文学碑などが多く点在しています



佛現寺

立正安国論の建白によって1261年に伊豆に流された日蓮上人
上原弥三郎という漁師が助けたと言われています
当時、地頭の伊東八郎左衛門朝高(ともたか)の難病を
日蓮上人が祈祷にて救い、この屋敷の北側(鬼門)に
小屋を作り上人を住まわせたそうです
その場所を祖師堂といい、後に寺が建てられ惣堂と呼ばれ
その後伊豆霊跡本山佛現寺となりました
現在祖師堂は紫雲殿となっています


伊東八郎左衛門朝高は伊東市史によると
伊東家は全て祐(すけ)という字が付いているので
おそらく朝高(ともたか)ではなく祐光(すけみつ)ではないか
と言われているそうですが、このあたりの案内には
全て朝高と書かれているそうです

このお寺には天狗の侘び証文があります 
(長さ313cm、高さ38cm、字数2,900、行数178)

一般には公開されてはいませんが
たまにイベントなどの折にはそのコピー(代筆)を見せて下さいます
古くは妙昭寺に伝わる寺宝でした
佛現寺は住職がおらず、明治になってから住職がきました
この近辺に8つのお寺があり
輪番制でこのお寺を守っていました
その後何らかの関係でこのお寺の寺宝となりました

当時柏峠天狗がよく現れていました
それを妙昭寺の住職がそこで一週間にわたる祈祷を終えると
松の木の枝に巻紙が置いてあったそうです
それ以後天狗が出なくなったことから
天狗が書いたのだろうと言われています
その字は一文字も同じものは無く未だに解読不能です
天狗がお詫びを書いたのではないかと言われています


今は天狗の詫び証文羊羹
土産としてこのお寺で買う事が出来ます

他にも昭和23年に新鋳された平和の鐘があります
千葉胤明、窪田空穂、尾上八郎(紫舟)、佐佐木信綱、
斉藤茂吉、高浜虚子た歌人・俳人6人の作品が刻まれています

1703年の大震災と津波、1923年の関東大震災による
犠牲者の供養塔もあります
また荻原井泉水および広瀬奇壁の句碑もあります


玖須美神社(天照皇大神社)

祭神は天照皇大神 (てんしょうこうたいしん)
境内には天皇宮(祭神:すさのをの尊)
稲荷神社(祭神:豊玉大神)、
秋葉神社(祭神:日之加具土神)、
疱瘡の神大六天神金比羅神山の神が祀られています


昭和42年社叢(しゃそう)県の天然記念物に指定され
リュウビンタイ(シダの仲間)が多く生えています
(日本列島の北限は伊豆高原にある
八幡野来宮神社だと言われています)


北原白秋「伊東音頭」碑

太田賢次郎(当時県議会議員で木下杢太郎の兄)
ちゃっきり節のヒントを得て白秋に依頼しました

昭和4年、北原白秋作詞、町田嘉章作曲で
歌詞は22番まであります
昭和44年に伊東市が観光会館別館前に建立しました


按針メモリアルパーク

平成16年、三浦按針の洋式帆船建造400周年を記念して
なぎさ橋の一角に作られました


日本初洋式帆船建造の地アダムス像
帆船のモデル(サン・ベナ・ベンツーラ号
などの彫刻が置かれています
伊東の著名な彫刻家、重岡建治氏の作品です


ウィリアム・アダムスはケント州ジリンガム(現メドウェイ市)
出身のイギリス人で徳川家康より三浦按針の称号をもらい
青い目のサムライとして有名です


昭和23年英国詩人エドマンド・ブランデンが伊東で初めて
ウィリアムアダムスの日本での活躍を知り
アダムスの業績を讃える詩を作り、伊東市民にメッセージを託しました
翌年、按針祭でブランデン碑の除幕式が行われました
昭和22年8月10日、伊東市制記念日にあわせて
第1回按針祭を挙行し、毎年同日に賑やかに祭りが行われます
中でも1万発を越える花火はとても素晴らしいです


研修日の午後ははあいにくのみぞれ交じりの雨になり
佛現寺以降は座学でスクリーンでの講義となりましたので
写真はそのスクリーンを写したものになってます

時間が無くなって来た割には深く書いてしまっていて
間に合わないかもしれないです
だんだん緊張してきました
伊東温泉おもてな師マイスターになれるといいなあ