「故郷」魯迅を読む
「私」の回想である。「私」の社会への希望が生まれたまでを描いた回想である。久しぶりに読んでみた。鬱々とした「私」のどうしようもない気持ちが綴られる。それは、引っ越しのため?社会制度のため?さて、「私」の気持ちが変化するのは、ルントウとの4回目の出会いの時である。 1.子どもの頃の出会い 2.現在の再会 3.見送り 4.船の中4回目の出会い(ルントウの些細な言動が思い浮かぶ)で希望が生まれる。どのようにして「希望」は生まれたの? ルントウが世の中の一般人の姿と重なったことが一番。 「私」の中で、期待の存在ルントウが失望に変わり、そうして最後に懸命に生き抜こうとしている普通の民衆の一人となったとき、「私」の抱く希望の持ち方もルントウの抱く希望と同じものだと感じる。 ルントウの見せるすれっからしさはヤンおばさんと重なります。 それは3の出会いで描かれている。 民衆の抱く希望と同じだと考えたとき、「私」の孤独は消えたのでしょう。 もしかして、 大きな目標「理想」にこだわることの空しさに気づき、 今を肯定すること、そして、 一つひとつの小さな目標を達成していくことが「理想」につながると 信じることができたのではないでしょうか。 「私」の社会に対する「理想」実現と現実での個人の生き方が重なったのでしょう。 Wellbeingについては、知識を持ちませんが、近いものがあると信じたいです。 人は、理想と現実がつながったとき、前向きに生きていけるのである。(主題) 後半部分の心情の変化につながるまでの前半が 後半部分の「私」の心情を知ると また違って見えてきます。 わざと、そのように書かなかったからでしょう。 「私」の主観で描かれた ヤンおばさん、ルントウの父、ホンル、シュイション、母の姿は、 ただ、弱くて愚かな存在だけでなくて 生き生きとした人間らしい面を持つのが見えてきます。 ルントウでさえ。 ところで、中国の社会を覆う諸悪の根源を 追究したこともありましたが、 それとともに、 「希望」が持てたことも押さえたい。 つかの間の「希望」ですが。