竹中直人の「野武士のグルメ」というのは日本ではどの程度見られているのか、よくわからない。が、ここ中国の若者の間ではかなりの知名度である。定年退職を迎えた主人公が、組織の束縛を離れ、その自由な日々に戸惑いつつも食べたいものを食べることに喜びを感じ、解放されてゆくその姿を、戦国時代の野武士になぞらえ描く。松重豊「孤独のグルメ」の竹中直人版ともいうべき番組である。
 
    このシリーズの第一話は、もはや会社に行く必要のなくなった主人公が、家を出、あてもなく歩いていたつもりが、結局いつもの通勤路そのままを駅まで歩いてしまっている。そして過去おそらく30年以上毎日のように歩いたその道の途中に、食堂があったことに初めて気がつき、その食堂で朝からビールを飲みながら食事をするという話である。
 
    通い慣れた通勤路にあった食堂に定年初日”初めて”気づくというところが、実に哀しい。
 
 
    以前こんな話を聞いた。うつ病の患者のカウンセリング治療法の一つに、小学校時代の通学路を描かせるというものがあるとのこと。私もためしにやってみると、意外なことに、実に詳細にわたって描くことができる。詳細に描けるばかりか、その道すがら生じたこと、友と語らった内容、遭遇した様々の出来事が、その地図の作画作業中にいくつも自然によみがえってくるのである。もちろん小学生である。まっすぐ帰るなどということはない。悪友連中と人の田んぼに侵入して虫取りはする、そこらじゅうの草花を荒らしまわったり、夏なら小川に足を突っ込んでみたり、寄り道オンパレードの時代である。それなり記憶に残るのは当然であるが、それにしても記憶は実にヴィジュアルで鮮明である。
 
    なるほどこれがうつ病治療に効果があるというのもうなずける、と妙に納得もした。まぁ,うつ状態であるなしはともかく、この作業は一度やってみることをお勧めする。なぜか硬直化した心のもつれが多少ほぐれたような気にもなるというものだ。
 
    毎日のように歩く道でも、社会人となりその道を歩く目的が100%行きたいところへ到達することだけになったとき、寄り道が罪悪になる。傍らの草木や、当面用のない食堂なぞ、背景のそのまた後ろに追いやられ、記憶の片隅にすら残ることがなくなる。人間がロボットのようになる。過去数十年の間、日本人は程度の違いこそあれ、そのようであった。そうやってこの社会を築き上げてきた。そしてそのことを是としてきた。
 
    この世に生を受けて10年前後の時代、身の回りのすべてのものが興味、探求の対象であったあの時代。あの時分の感性を片時でよい、取り戻したいものだと、常々思っている。
 
常熟中国語教室2