ボクは事務室の黒電話の前で固まっていた。
夜の仕事も終ってもう寝るだけの時間なのだけど、ボクは事務室でレトロな電話と睨めっこしていた。
自分の携帯電話は、こっちに来てから一度も充電していない。
きっと料金未納で契約も切れてる。
ボクはひとつ大きく息をすって、ダイヤルゆっくりと回していった。
ずっと使ってない番号だけど、忘れないで覚えている番号。
受話器を耳に当てて、コールが繰り返されるのを聞いている。
2回、3回。
どうしよう、やっぱりこのまま切ってしまおうか。
ボクが迷い始めたそのときだ。
『はい、お待たせしました。野久保です』
自分からかけたのに、相手の声が耳に入った瞬間、ボクは驚いて身体を竦めてしまった。
懐かしい、忘れかけてた母さんの声。
少し弱々しく聞こえるのは、距離が遠いから?
『もしもし、どちらさまですか?』
驚愕してしまい、ボクは言葉が何一つ出てこなかった。
このまま黙っていたら、たちの悪いいたずら電話だと勘違いされる。
それとも勘違いされて切ってもらったほうが良いのだろうか?
いや、それは良くない。せめて元気にしていると伝えなくては。
でも、声が。
声が喉から出てこないんだ。
まるで言葉が喉の奥に張り付いてしまったみたいに、何も唇に乗らないんだ。
『あの・・・』
電話口の母も困惑しているようだ。
早く、何か言わなければ。
早く・・・!
『直樹、なの・・・?』
焦るほど言葉が逃げていくボクの耳に、母は確かにそう言った。
ボクの名前を唱えてくれた。
『直樹、直樹なのね。お願い、切らないで。話したくなければ何も話さなくて良いから』
駄目だ、喉が詰まる。
答えたいのに答えられない。
喉が苦しくて、呼吸が難しくて、何も、何も話せない。
『つるのさんからお前のコトは聞いてるわ。ちゃんと働いてるそうじゃないの。
どこかで人様に迷惑掛けてるんじゃないかって心配してたけど、杞憂だったみたいね。
こっちに帰りたくなければ戻ってこなくても構わないわ。好きにしてて良い。
ただ、困ってどうしようも無くなったらここに帰ってらっしゃい。
母さんも父さんも兄さんも、お前の力になってあげるから、ね。』
ごめんなさいと伝えたかった。
こんな迷惑と心配ばかりかける息子でごめんなさいって。
だけどボクは何も言えなくて、言葉の代わりに涙ばかりが零れてきて。
母さんは、うんうん、って頷きながら、ボクの嗚咽をずっと聞いててくれた。
最後までボクはありがとうもごめんなさいも言えなかった。
でもいつか、ボクはちゃんと母の目を見てボクの気持ちを伝えたい。
あなたの子供に生まれて、本当に良かったと・・・。
ボクらは一人では生まれて来れなかった。
誰しもが父親と母親の元に生まれてきた。
呼吸するのが精一杯の未熟な身体で生まれて
沢山の手に守られ支えられ育てられた。
どれくらい愛されていたかは分からない。
それは人によって違うものだから。
中には義理とか立場とか建前とか
大義名分で差し出された手もあっただろう。
だけど、
誰かの手が無ければ、僕らはここまで生きてこれなかった。
泣いているだけで潰えてしまう運命だった。
ボクをここまで導いた、沢山の手、手、手。
その手に報いるために、今、ボクは生きているのだ。
剛にぃや雄ちゃんに出会って、
ボクはようやくそのことに気が付いた。
生きているだけで、ボクは一人ではなかったのだと。
続く