摂食障害は必ずしも病識を持つようになってから回復し始めるわけではありません。
実際私は、病院に行くようになって自分でも摂食障害当事者だという自覚を持っていても痩せ続け、自分ルールも日に日に頑固なものになっていきました。
なぜ病識の有無が回復に関係しないのかというと、摂食障害は依存症の要素も含まれているからなのだと私は考えています。
そこで今回の内容は、
- なぜ摂食障害や痩せに依存し、そこから抜け出せないのか
- 私が抜け出したきっかけ
を中心としたお話をしようと思います。
【“痩せ”に依存する理由】
「痩せ姫」という言葉を知ったのがいつだったか定かではないですが、この言葉を見つけた時は私の心理を突いている言葉だと感じました。
なぜなら、本当にガリガリに痩せた私になってから、
今まで教室の端っこで空気のように過ごしていた私に学校の先生も気を配ってくれるし、クラスメイトのみんなも壊れ物を扱う時のように優しくしてくれたからです。
女の子扱いというものに強く憧れていた私にとっては、
「あんなに憧れていたものが手に入った!」と言う感動が大きく、その成功体験から自分の体型に対してのこだわりがさらに強くなることになります。
周りにいる人が皆、か弱い女の子を扱う時と同じように接してくれるようになった私は、まるでお姫様にでもなったような気分でした。
また、自分のスクールカーストに対してのコンプレックスのほかに、
今まで過ごしていた環境も痩せる行為が魅力的に映る要因の一つだったと思います。
なぜなら、当時の私が初めて「自分の努力が報われた」と感じたのが減量による痩せだったからです。
実は私は、小学校から中学校までの間にいじめやさまざまな理不尽の壁にぶつかり、一時期は学校や部活に普通に通えなくなったり、毎日泣く日が続いたりした時期があったのですが、周囲の大人たちは当時、そんな私に
「努力は必ず報われる」と説得してくれたり、進級・進学のたびに「この時期が一番楽しいから」と励ましてくれたりしていました。
ところが、いつまで経っても私が「ああ、こういうことか」と腑に落ちた実感はありませんでした。
一方で、自分が決めたルールに沿って体重を減らしていったときは、
「痩せ」のおかげで欲しいものが手に入った実感があったと同時に、自分が努力した結果が実を結んだのだという達成感を味わうことができました。
減っていく体重計の数字が、私には「頑張りを認めていいよ」と許された瞬間のように思えたのです。
「努力は報われる」「次は絶対楽しい」その言葉を信じ続けて12年。
私が得たものと言えば、取れば絶対評価につながると信じて必死に守り続けた皆勤賞と、そこそこの成績。
しかし、皆勤賞は思っていたほど評価されるわけでも無く、成績もずば抜けて良かったわけでも無く、
結果的には「真面目でお利口」のレッテルと学校の先生からの「面倒がかからない子」という評価が残っただけで、
私自身、小中高と一度も学校が「充実している」「楽しい」場所だと感じたことはありません。
それに対して、減量は私を裏切ることはありませんでした。
先ほども書いたように、はじめは私の欲しいと思ったものは手に入りましたし、
その選択をしたのはほかの誰でもない、私です。
食べることを我慢して体重が減れば、それに伴って丁寧に扱われるようになったり、痩せることで一瞬でもキラキラとした子たちと絡めたりするようになって、
そこで初めて学校が「充実」していて「楽しく」思えてきました。
【欲しいものと対価を考える】
前にとある漫画で
「人は何かの犠牲なしに何も得ることは出来ない。何かを得るためには同等の代価が必要になる。」
という一文を読んだことがあります。
そういう意味できっと私は、「努力が結果に出る充実感」と「女の子としてのキラキラした学校生活」のために、健康な体と人間関係を犠牲にしたのだと思います。
しかしそれは本当に「同等の対価」だったのでしょうか?
苦しい思いをしてまで取りに行かなければならないものだったのでしょうか?
別の方法はなかったのでしょうか?
結果から話せば、この等価交換は全く成立していません。
なぜなら、得られるものに対して自分が負担するものがあまりにも大きすぎるからです。
「努力が結果に出る充実感」に関しては常日頃から減量に成功するたびに得られている一方で、
「女の子としてのキラキラした学校生活」に関しては少しほっそりした体系だった初めの方だけで、ガリガリになればなるほど人は離れていきました。
確かに、痩せればそのぶん数字として結果は現れます。
しかし摂食障害の落とし穴は残酷なもので、めいっぱい夢を見せた後に厳しい現実を見せてきます。
だからといって辞めようとすればまた、自分の弱いところや甘い夢を見せつけてくるのです。
そして最後はニヤッと笑ってこう聞く。
「さあ、どうする?」
だから私は今やっていることが得られるものに対して自分の負担が大きいことに気づかず、またそれが病気になっても「自分が好きで選んでること」としか感じ取ることができなかったのかもしれません。
目の前に差し出された摂食障害が手招きしている景色は、他の方法が盲目になってしまうほど魅力的でした。
摂食障害が用意した道を選択し、ひたすらに自分ルールにこだわり続ける選択をしていけば、少なくとも私が今この瞬間を生きるために必要とするものは単純に早く手に入れられます。
「長期的な目で見る」なんてことは考えられません。
なぜなら、私は今この瞬間を高校生という立場で、学校という環境を中心に生きているからです。
誰しもがこの時期を「青春」と呼ぶひとときを、私もキラキラ輝いた女子高生として過ごしたかった。
痩せて外側から可愛くなって、新しい自分に生まれ変わって、所謂“一軍”の子たちのように充実した毎日を送りたかった。
大人になってから、歳を重ねてから得ることができる「充実感」や「キラキラ感」と、高校生の時点で手に入れられるそれとは全くの別物なのです。
【のめり込んでいった理由】
入学当初のぽっちゃりした体型から、折れてしまいそうな(けれどもよくいる女子高校生並に)ほっそりしてきた頃は、体型を羨ましがられたり、
自慢じゃないけれどガタイの大きかった中学生の時に会ったことがある人から
「あれ、あおいちゃんってあんなに可愛かったっけ?」なんて言われたりした事もありました。
体育の時に馬跳びやおんぶをされても、同級生に対して「重いって思われるんじゃないか」と躊躇うことが少なくなったし、
寧ろ「軽い!」「私があおいちゃんに乗ったら折れちゃうよ~」と言われることが増えました。この言葉は私が今まで周りの女の子にかけてきた言葉でしたが、それと同時に私が言われたくて仕方がなかった言葉でした。
クラスメイトの中で細くて可愛いと思っていた子からも、「細いなー!スタイルいいなあ」と言われた時にはもう、優越感でいっぱいです。
この痩せはじめの時期は人生で1番だと思うくらいの達成感、優越感に浸っていたころだと思います。
と同時に、「痩せる」ことがこんなにも自分に自信を持たせてくれるのかと、「痩せる」だけでこんなにも上手くいくのかと、減量にさらにのめり込んでいったタイミングとも言えます。
徐々に私は、羨ましい意味での「もう、ちゃんと食べてる~?笑」から、
本気で心配してくれる意味での「ねえ、ちゃんと食べてる?」と声をかけられる頻度が増えていきます。
そこからついに“一軍”と言われるようなキラキラした子達からも疎遠され、入学当初から人間関係が築き上がってきた同級生たちの心の距離も離れていっていると感じるようになりました。
その頃の私も、クラスメイトが持っている「親友」や「グループ」、「充実感」や「キラキラ感」が私自身に無い事にはもう気づいていて、
でもだからこそ「もっと痩せないとみんなより優れているものが無い」という気持ちが強くなって、「痩せ」を守ることに必死だったのだと思います。
【摂食障害に依存する理由】
グーグーと鳴るお腹や空腹で唾液がどんどん滲み出てくる感覚は「食べていない」「ストイックにルールを守れている」安心感になったし、
物に当たって痛い座る時のお尻の骨や机に手を置いた肘の骨は、私が「痩せている」「心配してくれる対象」である証拠のように感じていました。
下剤の乱用による下痢や腹痛も、これと似たような感覚です。
自分が誰よりも優れている部分を守り通せるのなら、自身の体の悲鳴などどうでも良かった。
と言うよりも、摂食障害が見させてくれる甘い夢が深すぎて、自分自身の悲鳴が聞こえてこなかった、という方が近い感覚かもしれません。
そんな状態で「あなたは病気だ」「異常だ」と言われれば、自分の中では例外なくその人たちは私の優越感を邪魔しに来ている“敵”とみなされました。
また、私の体型を見て「痩せなきゃ」という子は全員“ライバル”でした。
“元々可愛い顔や性格の持ち主が私の唯一胸を張っていられる「心配する程か弱い女の子」のポジションまで奪われては、私の心は居場所を無くしてしまう。”
“居場所がなければ人はどうなってしまうのだろうか。”
そんな想像が私の不安と焦りに拍車をかけました。
もうこれほど疑心暗鬼になってしまえば、周囲の人に耳を傾けることなどできません。
自分の思考が病的なことは疎か、自分の体の悲鳴にすら気づかないから、この時点で誰かに相談しに行くことも出来ません。
私はすっかり、摂食障害に取り憑かれてしまったのです。
病院に通うようになり、はっきりと「摂食障害」という診断を受けてから、本格的な治療が始まりました。
それに伴って私自身も「病気の苦しさ」に気づくようになったのですが、この段階もほかの時期に劣らず残酷なものでした。
なぜなら、減量を始めた時よりも何十倍も何百倍も、夢と現実を激しく行き来することになるからです。
私が「いっそ消えてしまいたい」思う回数が最も多かったのもこの時期です。
本当の自分は「治したい自分」なのか「治したくない自分」なのか。
何が目的で何が手段なのか。
なりたい自分はどんなだったのか。
自分らしさとは何なのか。
「普通」ってどういう感じだったか。
完全にこれらを見失って、迷子になっていました。
【摂食障害から抜け出すには】
そんな迷子状態から手を差し伸べてくれたのが、今まで経験したことも無い新しいコミュニティでした。
そのコミュニティはある体験講座だったのですが、私はもともと内向的な性格で、普段はこういった活動的なものに申し込むタイプでは決してありませんでした。
しかし何故かこの時は不思議と申し込みリンクに手が伸びていたのをよく覚えています。
実際に参加してみると、そこはただただ個人の「好き」や「楽しい」、「興味」や「学び」を極める雰囲気が溢れている世界で、そこに参加した人とプライベートでも継続して関係を築くことを強制されることもないし、個人のプライベートを深入りされることもありませんでした。
明らかに見た目が痩せていても、そこに参加している人達は皆、私を「病人」として接する人はいなかったし、何事もない様子で他の参加者の人たちと同じように話しかけ、同じ時間を共有し、「つぎ会う日まで」とその場で解散をしました。
その空間はあれだけ学校で必要だった「グループ」という概念もなければ、「痩せ」が偉い訳でもなかったのです。
私にとってそこは「いかに先生から学べるか」「教わったものをどれだけ自分のものにできるか」「どれだけ成長できるか」が問われている場所のように感じました。
また、講師の先生にも事前に母が心配をして「病気で運動制限されています」と事前に一報を入れてくれたし、何なら付き添いと言って一緒に参加もしてくれたのですが、
その講師の先生は学校の体育のように「体力が無いからやめておこう」と私を“痩せ姫”として扱うのではなく、「やれる所までやってごらん」と私の“できる”という可能性を尊重してくれました。
講座の内容には最初から一般人が当たり前にできる内容ではないのも多々ありましたが、
特に私は体力がなかったり所々の骨が当たって痛かったりした為に、みんなができていること“も”出来ないシーンが多くあり、そこで初めて痩せていることの悔しさを感じました。
この「痩せている事」に悔しさを感じた感覚に、自分でも驚いたのを今でも覚えています。
きっとこれが、私が「摂食障害の自分」への依存から抜け出すきっかけになったのではないかと考えています。
【同等の対価】
そんな時間もつかの間、その新たな夢のような世界にずっと居座る訳にはいかないので、当然終わりの時間が来れば家に帰り、日常に戻ればまた「痩せ」が優位になる環境になります。
「夢は所詮夢で、結局現実に戻れば苦しいのは変わらないのだな」
そう思う日々がしばらく続いたし、
現実に戻された感覚はやっぱり少し悲しくて、そんな夢と現実のギャップに『摂食障害から逃れることが出来る日が来るのだろうか』と、いっそ消えたくなる事だってありました。
しかし前と違うのは、「次の夢のような時間まで耐えよう」と思えることです。
また、そこで交流を持った人達との時間を思い出せることも、前にはなかった新しい夢のような時間になります。
以前にも書いたように、私にとって楽しんだ時間を思い出す行為は、病気から意識を逸らすのに大きな効果があったし、毎度撮らせてもらった写真やそこに行くまでの交通手段を調べるだけであっという間に食べ物のことや症状が和らぐことが多くありました。
きっとこれは、学校ではなかったものの、私が欲していた「人生の充実感」の一種だったのだと思います。
思えば、「自分の人生が楽しい」と思ったのもそれが初めての経験で、
「痩せ」によって得ていたものは私の「アイデンティティ」や「充実感」ではなくて「ほんの一瞬の優越感」だったのかもしれません。
対して、新しいコミュニティで得た先には「あおいちゃん」という人格と、「自分」でやれるだけ勝負した結果、そして今この瞬間が最高に楽しいという「充実感」と「キラキラ感」がありました。
摂食障害と違うのは、そこに私がした選択に後悔がないということと、私が自然と笑っている事、そして現実と夢のギャップに失望する時間が少なくなっていくことだと思っています。
これが果たして同等の対価なのかと言われれば、私にはわかりません。
けれど、私にとってはこっちの方が得られるものが多く、幸せだと感じる瞬間が圧倒的に多いように感じます。
今は自分の目標と現実の差に悔しい思いをするときが多くなりました。でもそんな不完全な私も悪く無い。
ちょっと前の私に比べたら、今の不完全で不器用な私の方が好きです。
多分これは、「自己肯定感」や「自信」と言っていいのかもしれません。
そして、そんな私にはもう摂食障害という安心感は必要無くなってきているのだと考えています。
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