「普通の量が分からない」 これは、食事がうまくできないからこその悩みなのではないでしょうか。
この一言に込められる意味は自分にちょうど良い量という意味と、一般的に多いか少ないかという意味があります。
どちらにせよ、拒食や過食が毎日続いていると
自分がどれくらい食べれば、周りから多いとも少ないとも言われず、自分の体重も増えず、不安にもならず、 安定した食事が食べられるのかが分からなくなってきます。
「普通に1人前食べればいいんだよ」
「普通だったらもっと食べても良いんだから大丈夫だよ」
主治医の先生や管理栄養士さん、母や友達......
私の周りにいた殆どの人は何度もこう声を掛けてくださいましたが、私はその「普通」が分からなかったので、いまいちピンと来なくてその言葉に応えることはできませんでし た。
そもそも『普通』とは何でしょうか?
“一般常識” “ありふれた” “通常”
それらの言葉は、何を基準に決まっているのでしょうか?
たぶん、この「何」の部分を具体的に提示できる人はいないと思います。
そういう理由からなのか、よく一部の人からは「普通、っていうのは無い」と聞くことが度々あります。
しかし私は『普通』というものが無いわけではないと思います。
なぜなら、今はさほど気にならなくなりましたが、治療中は確かに私の中に「普通は」「みんなは」という概念が存在していましたし、支援者の方々にもしばしば「普通」を求められることがあったからです。
ところが、私にも周囲にも『普通』というものが存在するという認識は共通していたものの、お互いに主張しあう『普通』を受け入れることはできませんでした。
具体的な例をあげると、
拒食や過食で食事量が分からないという相談をしたとき、私は
「みんなそんなに食べてないよ」
と言って食事量を増やそうとしなかったり、過食したときや予定外のお菓子を食べた時に絶望したりしていました。
一方、病院や保健室の相談のときにそれを言うと
「みんなって誰?」「女子高生って食べてなんぼですよね〜」「これくらい普通だよ〜」と“食べても大丈夫だよ”というメッセージを私へかけてくれました。
このやり取りは何度もやった記憶がありますが、返される返事に毎度モヤモヤしていて、考えているうちに私 は自分の思う普通と支援者(大人)が思う普通が違うことに気づきました。
私にとって「みんな」とは、同級生という私の身の周りにいる子たちのことであって
「普通の量」とは、その子たちが食べている、もしくは丁度良いと言っている量のことです。
対して管理栄養士さんや保健室の先生、母などが口をそろえて言う「女子高生(=みんな)」とは支援者の方々が女子高生だった時期の仲良くしていた同級生のことで、「普通の量」とはその頃の方々の食事量のことを指します。
聞いたところによると、支援者の方々は毎日3食しっかり食べたうえで学校の休み時間は毎回お菓子を食べて、帰り道にたくさん買い食べして、家に帰ってからも普通に食事をしていた毎日を送っていたそうで
それが高校生、というのを前提として「私は全然太ってなかったよ!若い子はそんなものだよ!」と言ってくださっていたみたいです。
一方、私が同級生の食事をイメージすると
あまりお腹がすいていないことが多くて、残したり欠食したりするのもしょっちゅうで、1食がグミだけ・スナック菓子だけ・タピオカだけ、なんて日もたくさんあって、ダイエットしようとするとサラダとおかゆ生活、す ぐにお腹いっぱいになって食べるのもゆっくり......。
だから甘いものを食べてもトータルのカロリーが少ないから痩せていられるのだ、と思っていました。
また、ほんの少し昔のアイドルの動画をテレビで見ると、少しふっくらした柔らかくてハリのあるいかにも “少女” “娘っ子” “女の子”といった印象でした。
しかし今のあこがれの的となる女性像というと、折れそうなくらい細く長い足やシュッとした頬、華奢な体つきであることが多いような気がします。
実際、私の同級生たちと話していると「むっちりしている」「肉付きの良い」「健康的な体」という体への憧れというよりは、「細い」「華奢」というような言葉に惹かれていると感じます。(私も然り)
それらが理由で私はだんだん「大人の人たちの物差しに従っていたら私がなりたくない体型になる」と思って 支援者の方々の声が信じられなくなりました。
私の中で『普通』とは、『自分の置かれた環境によって自分で決めるもの』だと思います。
その人自身が生きた時代・周囲にいる人の価値観や行動・かけられてきた言葉や受けてきた教育などによって『普通』という感覚は左右されます。 つまり、別の環境の普通は自分の環境の普通には通用しません。
また、『普通』というものが明確に“これです!”と示すことができないということは
『普通』の概念は、自分はこれが普通だと思っているということに過ぎません。 実際、私が「みんな」と言っていた彼女らも私が彼女らを「普通だ」と決めつけていただけです。
こう考えるとまず『普通』という前提が違うので自分以外の人に普通の量を聞くのはあまり意味がないということになってしまいます。
自分の中で自分が決めたものが普通であるのならば、普通を言い換えると“自分が納得いくと思えるもの”であると私は考えます。
そうであれば、支援者側も自分も納得いく形にするにはお互いが「普通」の感覚を変える必要があります。
ここで大きな試練となるのが、感覚を変えて実践する当事者なのだと思います。
特に当時学生だった私は、学校生活という集団意識と思春期の承認欲求を兼ね備えており、周りからの目が気になるだけでなく周囲もよく見ているので、なかなか普通から抜け出すことができません。
しかも、そのような状態だったのは周囲のクラスメイトも同様だった気がします。
そうなると、集団の中で自分が変わるということが難しくなります。
私が時代によって変わっていく美しさの定義に左右されず、自分の価値観を変えられたのは学校外に居場所を見出して、その居場所にとっての普通が私の普通になったからです。
そこでは礼節という集団意識とそれぞれの生活という個人主義があった環境といった印象で、学校のようにみんながこうするからこうしなきゃ、と普通から抜け出ないように必死になる必要がないような気がしました。
寧ろ、礼節を守るという前提であれば
“自分がこうしたいからこうする”とか“ほかの人の生活に干渉しすぎない”
といった空気な気がして、「へえ、それで良いんだ!」と衝撃を受けたと同時に、私はその方が生きやすかったし楽しかったので、
病気になって見失っていた感覚、つまり私の中の『普通』が自分の丁度良いと感じるものだという感覚を取り戻すことができました。
自分が集団の中で一人だけ強い意志を貫くのは難しいこの環境で、そのような居場所に出合えたご縁は本当にありがたいと思っています。
現代の学生に話を戻すと、
あの集団意識と周囲の環境が強く自分に影響する時期・環境で自分の中の『普通』に耳を傾けることはほぼできないと言っても過言ではなく、痩せに憧れたり他人と自分を比べたりするのは致し方ないのだと思います。
母曰く、母の時代には今ほど痩せへのこだわりは強くなかったような気がするとのことです。
もしかしたら母の時代にその時代なりの美の向き合い方があったように、今のこの痩せへの強い憧れは、現代の少女たちにとっての美の文化として受け止めるべきなのかもしれません。
また、いくら痩せが必ずしも良いとは限らないとわかっていても、
メディアが根強く痩せ=美しさと捉えられるような発信の仕方をし、世界中が痩せへのあこがれを持っている 限り、この勢いを止めたりするのはかなり難しいことです。
しかし、痩せ至上主義である現代の空気が摂食障害という病気にかかる人々を増加させたのも、患う年齢を 徐々に低くさせていったのも歴とした事実です。
だからこそ、最悪の状態に陥らないための予防線を張っておくことが必要だと私は考えます。
先日、健康の授業で
2018 年に高等学校の学習指導要領が改訂され、保健体育のカリキュラムに『精神疾患の予防と回復』の単元が 導入、2022 年4月から授業開始をするということを知りました。
授業ではうつ病、統合失調症、不安症、摂食障害を扱うようで、3〜4時間の履修だそうです。
3〜4 時間でどれほどの内容を行えるのかが分かりませんが、摂食障害の当事者である目線から思うことは、 ぜひこの授業を通して、痩せ至上美文化がある現代の若者にこそ、しっかりと誰にでもかかりうるというリスクや病気の恐ろしさ・苦しさを知識として認識して自分の身を守って欲しいと思いました。
その反面、短い時間でこれだけの内容を行うという点や万が一摂食障害含むそれらの疾患に理解の薄い教員が教育したら......という不安もよぎりました。
生徒側が中途半端な教育を受けることにより、摂食障害(特に拒食や嘔吐)を痩せるための方法の一つの知識として捉えてしまう危険性も考えられます。
実際私もダイエットを始めるにあたって調べたサイトで摂食障害のリスクについて目にすることはありました が、今まで身近で見たことも詳しく聞いたこともなく、想像ができないレベルの話にどこか他人事だったので
「拒食症になれたら食べられないんだから楽じゃん!」
「摂食障害になれたらいいのになあ」
なんて、とんでもないことを考えていました。
それを避けるためには、やはり自分事としてしっかり病気と向き合ってもらうしかないような気がします。
具体的には、私が主治医の先生から勧められた摂食障害についてのビデオや、当事者の生の声を届けるなどです。
喫煙予防に喫煙者の肺の写真を見せることで恐怖を感じるように、それほどのリアリティがなければ「誰にでも起こりうる」というリスクを自覚することは難しい病気なのです。
特に当事者の生の声に関しては、せっかく SNS などで分かりやすく噛み砕きながら発信している声がたくさんあるので、ぜひそれを若者たちに届けられれば良いなあと思いました。