摂食障害の治療では心のケアや食事・体型への認識を正していく作業などをしますが、場合によっては通院するだけでは間に合わず、入院することがあります。これは、拒食症・過食症の両方に可能性があるそうです。

 

私の場合、拒食症による体重減少を抑えるためと、食事の大体の量を理解する為の入院だったので、この記事は拒食症の場合のお話になります。

 

拒食症の治療では、BMI(体重/身長²)が13以下になるとただ不健康な体になるだけでなく、死に至る危険性が高くなるため、強制入院となる場合がほとんどのようです。

その場合は最低限体重を維持することを目標としますが、決まった時間に3食が提供されて決まった時間に寝るという規則正しい環境の中で生活し、体重増加を試みます。細かい検査や毎日カウンセリングのようなものもするので、通院より深い治療が施されます。

それでも体重が減り続け命の危険が迫ってくると、点滴をしたり鼻から通した管で栄養を補給したり、最悪の場合はベッドに縛って無理やり点滴を打つ形で体重を増やすということもやらざるを得なくなると説明を受けました。

 

 

私は11月~12月ごろにはBMI13台に入っており、強制入院寸前のところでした。

タイミング良く(?) その体重になったときが冬休みに入る直前だったので、高校1年生の時に冬休みの期間を使って5日間の入院をすることになりました。

私自身が長期の入院は嫌だったけれど冬休みの一週間くらいだったら抵抗があまりないということで、短期で任意の入院という形で病院と契約しました。

というものの、生まれつき丈夫だった体や運動でつけた筋肉があったことが幸運だったのか、当時の私は特に意識を失うわけでも無く歩けなかったわけでも無く、フラフラ歩いたり動機や息切れがあったわけでも無かったので、自分がそこまで重症ではないと思っていて「私なんかが入院して良いのだろうか」「少し大げさではないか」という気持ちが強かったです。

 

 

摂食障害の入院先がすべてそうだとは断言できませんが、SNSで同じように苦しんでいる方々を見ている限り、多くの場合は『閉鎖病棟』に入院するようです。

私も入院した先は『閉鎖病棟』で、病院本館と少し離れた建物(橋のような通路で本館と繋がっている)の中にありました。

私がお世話になった病院では、病棟があるフロアに着いてから鍵付きの入り口を入ると直ぐに医療従事者の方々が常駐する受付があり、テレビが一つとたくさんのテーブルがある広々としたロビーのようなところに患者さんが生活していらっしゃいました。

比較的高齢の方が多いような気がしましたが中には若い方もいらっしゃり、症状も様々でした。

ロビーは左右に廊下が分かれていて、その廊下を歩くとたくさんの個室がありました。奥にはお風呂場がありましたが、看護師さんの鍵がないと開けられないようになっているので、普段はドアが閉まって奥はあまり見えない状態になっています。

 

閉鎖病棟の特徴としては

・ロビーの出入り口、風呂場では医療従事者の持つ鍵がないと出入りできないこと

・個室一つ一つに鍵(自分で施錠可能)と防犯カメラが設置してあること

・持ち物は厳しく制限されること

・外出は基本できない(するとしてもロビーの受付で外出の理由と時間を記入して許可をもらってから出る)こと

※私は症状が軽症(精神的不自由さがあまりない)だったので外出は一人でも受付を済ませればすぐに出させてもらえる状態でした

などが挙げられます。

 

他の病室と少し違った造りになっている上に、最悪の状況になったときに強制的な治療をしなければいけないので、入院する際は私と母にその旨の確認を取り、当日には母が契約書・承諾書を書いたそうです。

 

持ち物検査は危険物(ナイフ、ハサミ、カミソリのような怪我につながるもの)、市販薬、サプリメント、マッチやライター等が制限され、病室に案内されるとすぐに確認のために荷物が回収されました。

入ってすぐに防犯カメラがあったのは驚きでしたが、心療内科・精神科の個室がこのような仕組みな理由を考えると納得もいきます。

一応お手洗いの周りにはカーテンが設置されていて、その際にはカーテンを閉めればお手洗い中は防犯カメラから自分の姿を映し出すことはできません。

 

入院生活がスタートしてからは規則正しい生活と“一人前”が保証された食事が提供され、気分が乗っているときはお米でも普段より多く食べられた時もありました。

しかし、このカーテンという自分の姿が映し出されない場所を使って、食後はバレないようにスクワットをしたりジャンプをしたり、足上げをしたりしてカロリーを消費しようと必死になっていました。

病院食は健康を考えられた献立であることは皆さんもご存じとは思いますが、それは無駄なカロリーはない計算なので、主食をほとんど残していた私は、その秘密でやっていた運動と相まって体重が減った時もありました。

 

 

個室に鍵がかかっている理由も、いざ入院生活を始めてみるとよくわかりました。

閉鎖病棟に入院していらっしゃる患者さんの中には、長い間入院していらっしゃる患者さんもいるようで、素人の私が見ても“重症”ということが予測できるような容態の方もいらっしゃいます。

 

入院時に看護師さんに「夜は鍵をかけてね」と言われていたので、お風呂が終わるとすぐに部屋のカギにロックをかけていましたが、このように言われる理由もすぐにわかりました。

なぜなら深夜に他の患者さんが私の部屋に入ろうとしたり、激しくドアを叩かれたりしてしまうこともあったからです。たまたま鍵をかけていたときだったので何も起こりませんでしたが、間違いやトラブル防止のためにも、鍵はかけておいて正解でした。

 

 

 

食事は朝昼夜と決まった時間に配給され、自分の名前が書いてあるものをカートから持っていき、食べ終えると受付で看護師さんに薬をもらって飲んでから、食べ終わった食器をカートに戻します。

最初は唯一設置されているテレビを見るためにロビーで食べていましたが、結局部屋で食べることが多かったです。

 

ロビーで食べるのも部屋で食べるのも、私にとってはそれぞれメリットとデメリットがありました。


まず[ロビー]のメリットとしては

ほかの人も食べているので「私も食べてよいのだ」と思えて主食が食べやすくなる、テレビが見られるので世の中の情報を知る安心感がある事です。

デメリットは

他の人のペースを気にしてしまって食べる速度が遅い私は焦ってしまう、うまく食事ができずに口に含んだものをせき込んだときに飛ばしてしまう患者さんがいる(自分の食事にそれが入るときがある)、長い間入院している患者さんの“いつもの席”がわからないのでそこに座ればいいか毎回迷う、看護師さんに見張られているように感じて落ち着かない……などがあります。

 

一方[自室で食べる]メリットは

人の目を気にせず自分のペースで食べられる、席を選ぶ必要がない、静かな環境で落ち着いて食べることができる事

デメリットは

比較的に食べられる主食の量が少ない(食事にとても集中してしまう)、外の状況全く入ってこない、食事を自室運ぶ際に両手がふさがってドアを開けるのが大変……などの点があります。

 

また、母が仕事以外の時間は対面時間いっぱい病室にきてお見舞いしてくれたので、それにちょうど食事の時間が重なると自室で母の前で食べることになります。

そうすると“人の目を気にせず”は食べられなくなります。入院することで家族とのすれ違いも少なくなり、自分で考えて食事と向き合えた時間も、その間はできません。

お見舞いはもちろん嬉しかったのですが、食事時間になるとピリピリした空気になり、時には喧嘩したりしたこともあったので、入院中も家族と長い間一緒にいるのはあまり良かったとは言えないというのが正直なところです。

 

 

 

私は閉鎖病棟の性質上必要な受付をすれば、自由に外出することも可能だったのですが、母と散歩する以外は自室で過ごしました。

 

好きで自室で過ごしたというよりは、「自室にいるしかなかった」と言う方が正しいと思います。


なぜなら、ロビーで過ごす患者さんが怖かったからです。ロビーを通るとじっと見つめられたり、急に大きな声で何かを話しかけられたり、苦しそうに唸られていたりすることも多くあったので、とてもその環境にいることが我慢できず、本来使用できるドリンクが出てくる機械やテレビ等の設備は基本使わず、日々の献立をチェックするか食事の時間くらいしかロビーに行くことはありませんでした。


その患者さんたちに悪気が無いのは分かっていましたが、人生初の入院な上に特殊な環境での生活に不安しか抱いていなかった私は、どうしても部屋の外に足が進みませんでした。

 

 

自室にこもる生活をしていると、他の患者さんとは滅多に交流することはないのですが、唯一同じ拒食症に悩まされていた女性とお話したことがあります。

 

その方とはお風呂のタイミングが一緒で、着替えている最中に話しかけてくださいました。

お話を聞くと、約20年も摂食障害に悩まされていて、食事がほとんどとれないので今は管を通して治療している、そして家には大学生の息子さんが居るのだとおっしゃっていました。

話の内容はやはり太ることが怖い、という話で「息子の学費もあるのに何年もこの状態なのが本当に申し訳ない」「迷惑をかけたくないけど食べられない」「普通に食べたい」とおっしゃっていました。

 

しかしお風呂から上がってきたとき、彼女は管を意図的に外してしまっていました。

外に出るには看護師さんを呼ばないといけないので、鍵を外しに来た看護師さんがそれに気づき、すぐに管をつけなおすために彼女を連れて行きました。

それを見た私は、この病気は『摂食障害に支配されている状態なんだ』と初めて認識しました。

彼女はとても家族のことを思っていて、早く治したいし、食事も普通に食べられたら・旦那さんや息子さんと同じ食事を楽しめたらどんなに良いだろう、と語っていました。しかしその話をした数分後には、「太るのが怖い」という思いのほうが「治したい」の感情を支配して、さっきまで受け入れて付けていた命をつなぐ重要な管を外してしまうのです。

いままで私は食べられない自分がただ甘えているだけで、家族の気持ちを裏切る最低な人間なんだと思っていましたが、その時は少しだけですが考えを違う視点で考えることができました。

 

また、ただ何を考えているかわからなくて怖いと思っていたロビーにいらっしゃった患者さんたちも、同じような状況なのだと思うと、固定概念でその方々を見ていた私が恥ずかしくなりました。

一見何でこんなことを言うのかわからなかったり、なんでこんなことをするのかわからなかったりして、「知らない」は「恐怖」「怒り」になり当事者と周囲の間に溝が生まれます

しかし、その言葉や行動は本人を病気が支配しているから起こる「症状」であり、本人も理由なしに行動しているわけではないのだ、ということを知れば病気に対する見方が一気に変わるのではないでしょうか。

 

 

 

彼女と私は、お互い体脂肪が殆どなかったので窓が開いている冬の大浴場はとてつもなく寒いという話でも盛り上がりました。でもこれについては、彼女と話をしていなかったら笑い飛ばすなんてできないほど極寒でした。

他の病院がどうかはわかりませんが、同じような環境だと毎日お風呂の時間が戦いになるので、予め病院側に言っておくか覚悟を決めるかをしていないと精神的ストレスがたまる可能性が大いにあります。

 

 

 

入院中は数々の検査を行うのでそれで疲れがたまることも多いそうです。

しかし私からすると、検査でのストレスより毎日主治医の先生とやる一対一のカウンセリングの方が疲れを感じました。

カウンセリングの内容は海外で摂食障害治療に採用されている、自分を見つめるための質問に答えていくワークで、自分のことを赤裸々に話すのに抵抗があったし、コミュニケーションも苦手だったし、自分を分析することに慣れていなかった私は(もしかしたら自分を見つめたくなかったのかも)、この時間がとても苦痛に思えました。そしていまだにあのワークの効果は実感できていません。

 

たまに病室に管理栄養士さんが来てくださることがありましたが、その時はとてもうれしかった記憶があります。

というのも、その栄養士さんは栄養指導をするというよりは私の話を聞いてくれるという感じで、食事の話を少しした後は軽く雑談をする形で進んで自分のことをお話ししていたので、栄養指導が「苦痛だ」と思ったことは一度もありませんでした。

強いて言えば、お米を食べるという約束がなかなか守れなくて気まずかった時くらいです。

 

私が管理栄養士を目指しているのもこの管理栄養士さんの影響で、いつも私に寄り添った対応をしてくださっていました。だから私が話したいことを話せるし、私をわかって下さっている気がして、約束事も比較的受け入れやすかった気がします。

もしかしたら、周囲にいる人は専門的な内容や具体的な対処法を教えるのではなく、今当事者が何を考えているのかを「知る」作業が最も重点を置くべきことなのかもしれません。

 

 

 

 

入院生活で感じたのは「知る」ことの大切さです。

閉鎖病棟に初めて入ったときはまだ知らないことばかりで不安だったし、同じ病棟で生活している患者さんと意思疎通がうまくいかないことに恐怖を感じていました。

しかし、入院生活をするうちにだんだんリズムや仕組みや雰囲気がわかっていき、最後のほうは落ち着いて過ごせましたし、患者さんへの見方も少し変わることができました。

 

カウンセリングや栄養指導でも当事者に寄り添って当事者を知ることで信頼関係が生まれることがわかりました。これは後で知ったのですが、短期の入院の場合は体重増加食事の矯正というよりは、患者の人間性や心の問題を理解するために入院をさせるという目的があるそうです。

 

また、食事量についても“一人前”の量がわからなかったから食べすぎが怖かったし、維持する量も知らなかったのでなかなか増やす勇気が出ませんでした。でも、入院することで「専門家が考える一人前」という安心感とあまり増えない体重(主食を食べていないからだとは思いますが)のおかげで、「これぐらい食べても良いんだ」と思えました。

 

 

家族と当事者がうまくいかないのもお互いを「知らない」からなのが一つにあると思います。

家族が自分のことをどこまで信じてくれていてどんな存在に思っているのか知らないから負の感情と想像だけが膨らんでナーバスになるし、当事者が命綱のように痩せを捉えていると知らないから一生懸命手を離させようと頑張って空回りする。病気が本人を支配していると知らないから本人ができないことに苦しくなる。

 

病院のイメージだってそうです。

どんなところか知らないと足を運ぶ気にもならないし、必要以上に怖がったり身構えたりすることになる。

だから、もし病院に行きたがらない当事者がいらっしゃるご家族は、まずご家族が病院に赴いてどんな雰囲気なのかなどを「知って」本人に伝えるのも一つの手段なのかな、と思います。

 

 

 

退院した後も病院食と同じような食事を毎日していたかと言われたらそんなこともないし、寧ろ解放感が強くまたいつものような少ない食事に戻りました。

また、“一人前”の量と一日多く食べたところで急には太らない、という事実を知ったことで退院後に過食をするようになったり、“これが過食なんだ”と認識してから心の浮き沈みが激しくなったりもしました。

 

私のような場合の入院は摂食障害を治すところでは無く、わからなくなってしまった「普通の生活」というものを知りに行く場所・先生方と信頼を気付く期間と捉えたほうが合っている気がします。

だから、その後普通の食事ができなかったとしても全く意味のなかった入院ではないし、入院する本人も「軽症だからここにいてはいけないのかもしれない」と思う必要はないです。

 

 

摂食障害は治療にかなり時間がかかる病気です。

焦って治そうとすると逆効果なことが多いし、スピードを求めた治療は「知る」作業を飛ばしている可能性が大きいかもしれません。

使える手段は正しく少しずつ試していくのが得策だと考えます。

 

 

 

あなたは自分や周囲をどれだけ知っていますか?

 

当事者は本当の自分を見つめられているかを、周囲は当事者自身を見ているか・自分は自分の意志をはっきり伝えられているかを、今一度再確認してみてください。

 

“生命の奇跡は本の中ではなく、人間の心と体の中にある”

“人に見えないものを見ろ。恐れとか怠惰で人が見ようとしないものを。新しい世界が見える”

 

 

これは『パッチ・アダムス』という映画の中に出てくる言葉です。

 

問題の本当の解決策は、いつでも奥の方に隠れています。見ようとしなければ見ることはできません。

人や物の背景を「知ろうとする」ことを忘れてはならないと入院生活を振り返る中でも学ばされました。