以前、『他人と自分の異なる部分に注目し、受け入れたうえでどうするべきか』を考える大切さと、

いざそれを伝えようとすると、つい本人の目指す方向を否定してしまう言い方になってすれ違ってしまう可能性があるという事をお話ししました。

 

例を挙げると

「あなたと世界が違う彼女ら(彼ら)を真似してもああはなれないんだよ」と声をかけると、

「私だってあんな風にきれいになりたいのに、それを根本から否定された!」と受け取ってしまい、余計に欲求不満になり摂食障害に拍車をかける結果となるように。

 

 

ではどうすれば良かったのか?

それは、“あなたそのものの存在が、どんなあなたでも、素敵で大切で大好きなんだよ”

ということを伝えること。

 

 

 

 

私がこれに気づいたのは、家や学校以外のコミュニティで出会った人たちとの関わりからです。

家では、母から

「どうしたら食べてくれるの?」「何だったら食べれるの?」「もっと増やしても標準体重には届かないんだから」

と、痩せから脱出してほしいという気持ちしか私に届いていませんでした。

だから、私自身を見ずに痩せている現状しか見られていないようで、それが自身を否定されているように感じたし、

痩せてる私は心配と迷惑をかけるだけのダメな娘、と思って自己否定をする毎日でした。

 

 

そんな毎日を送る私は、あるショーを見たこときっかけに自己表現をするワークショップに参加してみようと、東京まで母と出かけることにしました。(関東の田舎住みです)

そこで一出会った人たちは皆、痩せているかどうかは関係なく平等に接してくださって(気づいてはいると思うけどあえて触れずに普通にしてくれて)、その様子が私自身を見てくれていると思わせてくれました。

さらにその方々は、それぞれ好きな服を着て、個性を持っていて、好きなことにまっすぐで、一人一人がキラキラしていていました。その影響を受けたおかげで私は私でいいのだと思えて、救いになったのです。

 

また、ワークショップの内容もかなり大きかったです。

学校では「病気だから」と体育も禁止、クラスの皆と何かするときも必ず「無理しなくていいよ」と言われ、他の子みたいに登下校しようにも病院から送り迎えしてもらうように言われていたので車で送り迎え。学校でも家でも、常に私自身は何もできない足手まといな存在だと思っていました。

 

しかし、ワークショップの先生は「できるところまでやってごらん」と背中を押してくれて、「失敗しても良いんだよ、最初はみんなそんなもの」と失敗をマイナスに受け止めなくて良いことを教えてくださいました。ワークショップに参加した方たちと創作で物語を作るときは、私のどんなアイデアも否定することなくしっかり聞いてくれました。

そんなことが相まって、私は外の世界に出た時だけですが、徐々に自己否定することが少なくなりました。

この経験から気づいたことは、どんな姿だろうがいつでも“本人”を見つめること、つまり“いつも通り”に接してくれることが一番安心する、という事です。

 

 

 

とはいっても、いくら「体型は関係ないよ」と声をかけられてもパニック状態のときは聞く耳を持たずに「そんなことない!」「お母さんだからそう言うんだ!学校じゃ違う!」と言ってその言葉を素直に受け取ろうとしなかったのも事実です。

パニック状態になっていると、頭の中が既にいっぱいいっぱいで、どうしても周りがうまく見えなくなるのです。

でもそこで粘り続けて欲しいというのが本心です。なぜなら、心配の言葉をはねのけるその言葉は本人が思って言っていることではなく、病気や世間が思い込ませて言わせている状態だからです。

 

 

当事者の方は、最初からそういうことを言う方でしたか?

多分大半の方は「そうではない」と答えるのではないでしょうか。

 

 

思い返せば、私が小さい頃は“あの人はきれいだけど私は違う”“痩せないと認めてもらえない”なんてことは微塵も思ってもいませんでした。

 

少しも自分を嫌いだと思った記憶はありませんし、容姿や自分の能力に自信を持てずに自己否定していた記憶はありません。

それどころかプリンセスやアイドルに憧れ、歌ったりダンスをしたり、おしゃれをしたり……自分のなりたいものに夢中になっていた記憶しかありません。

子供用のリップを塗るだけで自分が素敵な女性の一員になれたような気分になり、鏡の中の自分に満足していました。おめかしした自分を褒めてもらおうと家族や幼稚園の先生に見せびらかしては「可愛いね」「いいね」と笑顔を向けてもらえました。周囲の人たちは皆、全力で私を肯定してくれていました。

つまり、認証欲求が常に満たされた状態だったのです。

 

ところが思春期の真只中に差し掛かるころ、ちょうど他人からの目や他人が気になる時期に、

成績・教室内ヒエラルキー・自分と同じ世代の芸能人が多くの人に求められ活躍する時代……などの外部からの刺激に動かされ、どんどん自分自身に疑いを持ち始めて自信を失っていきます。

どうしたら他人に良いと言ってもらえるか?良い友達、良い娘、良い生徒、憧れの人になれるのか?周りは何を求めているのか?

そんなことばかりに目がいって、自分がどうありたいか?は見えなくなってしまいました。

そしてそんな不安定な時期に運悪く、摂食障害という落とし穴にはまってしまったのではないかと思います。

 

 

 

 

摂食障害は落とし穴のようなものだと考えています。

外部の影響を受けて不安定になる時期になるのはよくあることですが、必ずしも摂食障害になるとは限りません。

私もまさか自分が摂食障害になるとは思っていませんでしたし、

だからこそ、いざ落とし穴にはまってしまうとパニックに陥ってしまいます。

パニック状態では、当事者としては自分のことすら分からなくなるほどいっぱいいっぱいの状態です。

 

 

 

皆さんも自分が落とし穴に落ちてしまったと仮定して考えてみてください。

思いもよらぬところに穴があって落ちる。まずその時点で大パニックで、今自分が具体的にどういう方法で助けて欲しいか、なんてことはとても考えつけません。そこに人が来て、あなたは助けを求めます。

その時、自分が助けを求めた先もパニックだと、余計にパニックになりませんか?

しかもそれがなるべく困らせたくない大事な人だったら……

 

大切な人を自分が助けを求めたことでパニックにさせてしまった、不安にさせてしまった、困らせてしまったら、「助けを求めなければよかった」と思いませんか?

 

 

 

私は摂食障害で家族に(もちろん家族以外もですが)沢山支援を受けました。悪い言い方をすれば沢山迷惑をかけました。

 

登下校の送り迎え、通院代、薬代、強いこだわりや過食でかかる食事代、不安定な体調で心配させ、すれ違い喧嘩してイライラさせる毎日、将来への不安。

私が病気になって負担になっている自覚はずっと心の中に重くのしかかっていたし、これ以上迷惑をかけたくないという気持ちは最も大きかったといって良いくらいです。

そんな中、辛いという意思表示をしたときに向けられる困った顔や不安な表情、「また?」「じゃあどうすればいいの!」「私の育て方がいけなかったの?」「ただハイハイ、って聞いとけばいいの?」「言ってくれなきゃわかんないよ!」

等の言葉たち。それは親への罪悪感に油を注いで、私は

「これ以上迷惑はかけたくないし、自分の気持ちを口に出したところでまた否定されるだけだから」

と、ますます自分の意思を心の中に押し込んでしまいました。

結果、その吐き出せない分の辛さや意志は、症状として全身で表現することになりました。

日々の食事の記録と毎週一回量る体重の記録を病院に行くたびに提出していたのですが、体重が減ったり食べなくなったり、逆に過食をしてしまったときは特に精神的ストレスが多い時でした。

 

 

だからもし、当事者が何を考えているのかわからなかったり、どうしてほしいかわからなかったり、口を閉ざしてしまったときは

「どうして言ってくれないの?」ではなく「自分は気持ちをちゃんと伝えられているかな?」という点に注目してほしいです。

 

 

あなたが最後に本人自身へ声をかけたのは、いつですか?

 

本人は治す気が無いわけでも、困らせたいわけでも、嫌いになったわけでもありません。

 

 

結論、

特に何もしなくていいから、ただ隣で私自身を受け入れて欲しい

それだけです。

 

心配な気持ちや辛い現状から少しでも早く脱出させてあげたい、という気持ちはよくわかります。当事者自身もそう思ってくれていることはわかっています。

ただその気持ちをぐっとこらえて、

 

「あなたは今、病気のせいで辛い思いをして、自分が嫌いになっているかもしれないけど、本当のあなたがちゃんと居るのは分かってるし、そんなあなたも含めて好きだよ」

 

そう声をかけて欲しいのです。

 

辛いことは悪いことではありません。沈んだ分だけ上がれるはずです。

 

 

 

 

“悲しみは幸せの原石だけど乗り越えなきゃ”

 

 

これはあるバンドの曲の歌詞です。

辛い病気に毎日懸命に向き合っている当事者が乗り越えられることを信じて欲しいのです。信じてくれている人がいるという実感はとても力になります。

信じてくれる人が自分の大切な人だったのなら、それはかなりの効力があります。

裏を返せば、突き放されたように感じた時の追い打ちもかなり大きな力になります。

 

 

 

皆さんも辛いことや苦手なことの一つや二つ、あると思います。それがたまたま食事なだけです。

一緒に笑い、一緒に泣く。

病気だから、痩せているから、辛いと言っているから、どうしてほしいではなくて

一人の人間として、一人の困っている人として、寄り添って欲しい

 

 

 

 

また、前の記事の補足でも書きましたが

パニック状態のときは何を言っても受け入れられない状態です。だから比較的落ち着いているときは、本人自身へ寄り添う言葉が届きやすいと思います。遠慮なくどんどん言っちゃってください。

 

つまり、年がら年中、いつも大好きって言ってくれても良くってよ!という事です。笑

 

 

嗚呼 寄り添うだけで優しさも言葉も

何もないままただ居て欲しい そんな時あるでしょう

嗚呼 ひらがなみたいな優しさを

まっすぐに見つめれない そんな日がありますか

 

 

特別な言葉がなくても、具体的なアドバイスじゃなくても、何か物として与えてもらわなくても良い。

ただそのままの自分で居て良いんだよ、どんな自分でも大丈夫だよ、

 

そうやってただ自分を見つめられる状態になるまで寄り添ってもらえることが、パニックになったときに一番やってほしいことだったんだと気づきました。

 

ぜひ身近な人からで良いので、寄り添う言葉を口に出して伝えてみてください。