皆さんの“自分を定義するもの”とは何ですか?

“自分”とは何ですか?

 

見た目でしょうか?学歴でしょうか?それとも友達?お金?

 

今ご自身の中で出た答えは人それぞれあると思いますが、ここで考えていただきたいのは

「それが無くなったら自分ではないのか?」

という事です。

もしそれがなかったら私ではない!というのなら、それはあなたを定義するものなのだと思います。

そして、それには人が何を言おうと変わるつもりはない!という強い意志が一緒に存在しているのではないでしょうか?

 

 

 

中には一見、だれが何を言おうと揺るがない意志だ!と言っておきながら周囲に流されているパターンを多く見かけます。

 

例えば、SNSでのダイエットの経過をツイートする方。

「私の体どう思いますか?」「私、太ってますか?」「太ってると言われた!見返してやる!」「彼氏に太ってるって言われたから痩せる!」

 

それって「自分がなりたくてなる」のではなくて「他人が良いと評価するまでやる」=人に言われたから変わろう、になっていると言えませんか? 

ダイエットツイートをする方全員がそうであるとは言いませんが、

私の場合、この自己暗示で作り上げられた「他人主体の自分の定義」を抱え込んでしまったことが、摂食障害という病気につながったのではないかと考察しています。

 

 

 

「人は外見ではなく中身」とはよく聞きますが、私は本当にその通りだと思います。

 

なぜなら、外見は変化するものだからです。

この変化には二種類あって、一つ目は自身の変化(物理的変化)です。具体的にいうと、ヒトは成長していくにつれて見た目は大きく変わっていきます。いつまで経っても肌も髪質も体内機能も成長しない・衰えない人は、膨大な時間とお金を消費しているか、生き血を啜っています。

 

二つ目は周囲の変化です。こちらも具体的に言うと、美的感覚の変化です。わかりやすい例としては平安時代の美しい女性像と現代の美しい女性像が違うというものがあります。

また、環境の変化という観点からもこれは当てはまります。どういうことかというと、人それぞれ好みが違うため自分がいる場所や対面する人によって自分に対する印象や評価は変化するのです。

この変化するものに“自分の定義”を置いてしまっては、変化する度に自分が変わらなければいけない状態になります。

 

生きている限り(オフラインやSNSで色々な人と接する限り)、私たち個人は人の意見や環境が常に変化し続けている状況下にいますから、周りの主観で評価されている自分を『定義』としてしまうと、とても不安定なものに定義を委ねることになり、結果、周囲の意見に振り回されることに陥りやすくなります。

 

一方、『中身(人柄や生き方)』に注目することは、『今』のその人自身が定義になります。

つまり、変化していく状況下を生きているあなた自身=今までどんな人生を歩み、今どんなことを学んでいて、どんな職業で、どんな見た目で、どんな心境で、どんな人たちに囲まれていて、どのような考え方をしているか、どれが得意で何が苦手なのか……

といった今を生きる“ありのままのあなた”こそが自分を構成する“自分の定義”になります。

 

 

 

同じように、他人には“他人の定義“があります。私たちはよく、他人の定義を見て羨ましくなることが多い気がします。しかし、他人を定義するものとは、何なのでしょうか。

 

好きな人を思い浮かべてみてください。タレント、モデル、歌手、芸人さん、声優さん、先生、友達、彼氏彼女、家族……あなたはその人のどこが好きですか?見てくれが変わったら、その人が嫌いになりますか?

そこで、「嫌いになる」と答える方は少ないのではないかと考えます。特に友達や家族、彼氏彼女を思い浮かべたとき、

見てくれがいいから、といって深い人間関係を築きあげられている人はなかなか見当たらない気がします。

 

100%とは言い切れませんが、

たいていの方は、好きな人の良いところは勿論、少し抜けている所や苦手な部分が見えたときでも

「そこもまたいいのよ!最高!尊い!」ってなると思います。それは、“その人自身”が好きなのだといえるではないでしょうか。

 

芸能界を生業としている方を思い浮かべた場合は、その人の体型や顔が好き、という方もいらっしゃると思います。でもそれは、“その人自身の”体型や顔であって、ファンの人の好みがこうだからこうなる、といって日々変化しているわけではないですよね。ファンの人がこう言うから、といって一人一人の需要に応えていれば、それはもう〝その人″ではありません。

 

有村架純には有村架純の体型・顔の良さがあって、そこに惹かれた人が有村架純自身を好きになる。エマワトソンならエマワトソンの体型・顔の良さに惹かれる人がエマワトソン自身を好きになる。(男性の視点は体験したことがないので割愛します)

体型や顔が好き!という方は、ここで有村架純やエマワトソンと同じような体型や顔の人が急に現れたら、その人のことも同じように好きになるはずです。しかし大抵の場合は、憧れてそのまま彼女たちの体を自身にコピペできた人が出てきても、今の彼女たちのファンが100%その人を好きになってくれる訳ではありません。

前者のような純粋に体型や顔が好きなこと自体は別に否定しませんが、そのような感覚を人間関係に持ち込まれたとき、

「この人と親友になれそう!」とか「この人と一緒にいたい!」

とは思わないです。(少なくとも私は)

そういう意味では、自分の見てくれを生業としている方々は“自分が好き”で、そんな自分を見てもらうのがお仕事なのではないかな、とも考えられます。自分を好きでいてあげられて、自分が決めた自身の定義を持っているからこそ、えげつないくらい様々な好みや感性が飛び交う中で輝いていられるのだと推測しています。

 

 

そう考えると、私は他人の定義を羨ましく思っているより、自分の定義を見つけたほうが良いと思えてきました。

だから、私たちも自分自身の定義を決める前提として”自分を好きであること“が必要です。

そんなこと言ったって、ナルシストにはなれないし、なりたくないよ!という方もいると思います。

しかし、“自分を好きになること”と“ナルシスト”は少し意味合いが違います。

 

 

 

私も自分を好きになれず、もはや自分が嫌いでした。だからこそ、SNSで「可愛い」とか「きれい」とか「癒される」とか沢山の人に褒めてもらえて、キラキラしていて、自分に自信があって、女の子扱いを受けているモデルさんや、同級生の可愛い女の子たちを羨ましく思っていました。

 

つまり、モテたいと思ったわけです。

 

自分は嫌いだけど愛してもらいたい、愛してもらえば自分を好きになれる、という承認欲求の塊でした。

そんな私が自分も憧れの子たちのようになりたい、と思ったとき

まず自分と違うところはどこか?を探し始めました。そこで、たどり着いた答えは見てくれでした。

中学校3年間バスケ部で体を鍛える毎日。そして駅伝も陸上も参加し、よく食べよく寝る子でした。そのおかげか、女子の中では筋肉質な体つきでした。そんな私は高身長がもともとコンプレックスで、さらに受験太りと思春期が重なり体のラインが気になっていました。

そこで、まず華奢な体で身長が低く、女の子らしい体つきの同級生に憧れを持ちました。徐々にそれは

 

友達=女の子らしくてモテる(みんなに認めてもらえる、受け入れてもらえる)

自分=ごつくて女子扱いされない(女の子として否定される、優しくしてもらえない)

 

という固定概念に変化し、今まで気にしていなかった肩幅、顔の大きさ、笑顔までもコンプレックスになり、自己否定をする日々が続きました。

友達との差に追いつくべく、思いついた方法は『ダイエット』です。

大きな体(自分)と小さな体(友達)、と考えたとき

単純に、「痩せれば可愛くなれる。みんなに受け入れられて、褒められて、女の子として優しくされる対象になれる。」

そう考えついたわけです。

 

 

さらに、男の子たちからきこえてくる「女子は40kg台じゃないと」とか「ゴリラ」とか「デブ」という言葉。友達や大人たちからかけられる「筋肉すごいね」「がっちりしてるね」「ガタイがしっかりしてるね」「※センター向いてそうだね」という言葉。

家族からの「昔はあんなにほっそりしてたのに」という言葉。華奢な友達と一緒に映る写真。メディアでもてはやされる痩せた体と笑いの対象になる大きな体。入らないフリーサイズ、かわいい服を見ているときのお店の人の反応。

 

それらすべてが、自己否定に拍車をかけ

華奢な体ではなくて身長が大きい自分は悪、という意識が強くなっていきました。

※バスケで比較的パワー重視のポジション。高身長プレーヤーが担当になりやすい。実際、私はセンターの選手でした。

 

 

 

はじめは何度もダイエットに挫折しましたが、自己否定の塊の状態だった私は家から一歩出れば自分と比べ、自分に絶望していきました。それから私は痩せて周囲の人たちに女の子の一人としてチヤホヤされる未来を願って、痩せることに専念していきました。

しかし、いざ痩せてから待っていた現実は

私を「スタイルが良い」「羨ましい」という人と「やめたほうが良い」「不健康だ」という人がいて、いつまでたっても女子扱いもチヤホヤもされている実感も全く無い日々でした。

 

周囲の意見(常に変化する環境)の中に私の定義を置いていたので、痩せろと言っていた人が太れと言ったり、痩せているほうがいいと言っていたのに痩せて気持ち悪いといったり、激しく変化しそれぞれが異なる意見を投げつけてくる現実を前に、私自身がどうなりたいかはもう分からなくなっていました。

とにかく承認欲求が強い私は、とりあえず「悪い」という自分に都合の悪い意見に蓋をして、「良い」という意見に耳を傾けました。しかし、やせ細った体を良いと言う意見はごくごく少数に過ぎません。しかも、それが心の底から良いと思って言っているのかどうかについては定かではありません。

 

その結果、「痩せる」という行為を多くの人が褒めてくれる(同級生やタレントの女の子のように)まで続けるという選択をしてしまいました。

しかし、この“多くの人”とはいったい誰なのか?以前の私をデブと言っていた人たち?もしその人たちに痩せた姿を褒められてチヤホヤされたとしても、自分自身ではなく今この瞬間の体型にしか価値を置いていない人に承認されて、本当に満足なのか?

ということには気づかずにいたのです。

見えない誰かといつまでも満たされない欲求のために一生懸命痩せ続けては、表面的で無責任で都合の良い評価を求めていました。

 

もし、自分の定義が自分自身であったのならば、「自分がどうありたいか」を軸に生きる為、このような結果にはならないと思います。

「自分が好き」であることは、自分自身の良いところも悪いところも受け入れることになります。冒頭に述べた、自分の推しのすべてが愛おしい!最高!という状態です。

 

 

 

自分の一番の推しになれるのは、自分自身です。良いところの反面、悪いところもあって、得意なことがあれば苦手なこともあって、どんな生活でどんな考え方なのか……

一番の理解者になれるのは、認めてあげられるのは、自分だけなのです。

 

他人の意見は変化します。だから結果を出したころにはもう見ていない。見ていたとしても「ああ、そうなんだ」という薄っぺらい評価と、外見にしか価値を置いていない事実が見えるだけです。

私が体重を気にしているときも、痩せ始めた時も、摂食障害になっても、いつも主観をぶつけてきて、全く「本人」を見てはいません。きっとその人は(年齢や体調などで変わるのなんて当たり前な人間の)外見が変われば離れていくような人です。

 

 

一方、自分自身は不動です。

「なりたい体型や目標が変わることもあるじゃない!」と言いたい方もいらっしゃるとは思いますが、変わる前の自分も“私”だし、変わった後の自分も“私”なわけですから、“自分自身”という事実に変わりはないです。自分を愛せていれば「昔の私も好きだったけど、今の私はもっと好き!」と考えることができます。

 

そんな風に自分を愛していられる人と、「今の私なんか…」「変わったのに何で褒めてくれないの…」「私の努力が足りないから…」と思っている人、どちらを好きでいたいと思いますか?どちらが輝いて見えますか? 

 

自身を愛する心持でいれば、周りがどんな言葉をかけようと「今の私には満足しているの」と振り回されることもありません。利点も欠点も全て自分として受け止め、今の自分に満足できれば、それは自信になります。

あれほど必死で追い求めていた自分であるという自信。自身で自分の定義を決めて自分主体で考えることによって、あんなに努力していたのが嘘みたいに、いつの間にか得られることができていました。

彼女たちをあそこまで輝かせていたのはこれだったのかと気づきました。

 

 

 

 

大切なのは、外見を周りに褒められることや羨ましがられることではなく、

「自分が好きな自分」になって、ありのままの私を見つめてくれる人と人間関係を作り上げることだと思います。

 

「私」を好きでいてくれる人は必ずいる。今、私を支えて下さっている方々は、私がやせ細っていた時でもそのことに目を向けるのではなく、「私」という個人として接してくれた方々です。「私」という人として愛してくれていると感じています。たとえこれから私が太ったとしても、またやせ細ったとしても、ムキムキになっても、「私自身」とし見てくれるんじゃないかなあ、なんて思うほどに。

それが見えてくれば、当時の私が追い求めていた奥の人にモテることや認められる事はあまり重視しなくなっていて、人と人とのつながりを大事にしたいと思うようになりました。

 

 

 

万が一、「君の顔が好きだ!体型が好きだ!」という人が目の前に現れたら、

「私、ずっとこのままなわ訳じゃないので、同じ外観のアンドロイドでも愛でていてください!」「外見だけでいいなら、それ私じゃなくてもいいじゃない!」

と追い返す勢いで居たいです。今の自分の複製アンドロイドを愛でられると想像するとちょっとゾッとするけども笑

 

 

 

考えるべきことは、自分主体であること。

「憧れのこの人を真似すれば、私を好きになれるはず」ではなくて「どんな私も悪くない。」

「私の体どう思う?」ではなくて「私の体はこうなんです!」

「あの人に比べて自分なんか」ではなくて「他人の定義と私の定義」。

ある人は言っていました。「あなたはあなた、私は私。」

 

 

 

そして今の世の中には、無関心な領域に無責任な主観を投げる野次馬的な興味ではなく

自分の人生と自分を愛し、愛したい人を愛す寛容さが必要なのだと思っています。