相変わらず衆院と参院の対立で不利益をこうむるのはわれわれ民草だということに気が付いてもらえるのはいつのことやら。
正直、15歳未満からの移植が認められないからといって、海外で順番待ちしている人から金を積んで横取りをするような真似には加担したくないと思っています。
そういう意味ではA案の「年齢制限なしで家族の同意によって移植が可能」というのは臓器提供に反対する人間にも、国内で移植を待つ人間にとってもいい着地点だと思います。
問題は「脳死状態の15歳未満の患者の家族が臓器提供に同意できるのか」ということです。
愛するわが子が死を目前にしている中、コーディネーターから移植の打診をされて、冷静に臓器提供を検討できる親がいるでしょうか。
まだ心臓の拍動はあるので手を握れば暖かい。
そこから臓器を摘出してしまえば、決断した家族の責任で子供を殺してしまうというジレンマ。
しかし、脳死状態ということは死に対して不可逆的な状態であるという認識。
その中で、自分の子供の臓器でほかの人の命を救うことができると考えるか、体の一部分でも欠けてしまえば天国に行けないと拒否をするか、それは家族の自由であり、生命への尊厳に対する考え方の相違でしかありません。
提供したことも、しなかったことも賞賛されることでもなければ、非難されることでもないという認識を社会全体で共有していかなければならないということです。
いつ、自分が提供する側に、提供を受ける側になるのかは分からないからです。
ただし、提供を受けるのであれば、自分も提供をするというバーターにしなくては不公平感は拭えないでしょう。
命に対しては命で贖うという思想が必要です。
私自身は、死に対して不可逆的な状態=脳死とするのであれば、私自身の臓器をいかようにも利用してほしいという考え方です。
かつては医療技術が未熟なため、臓器を交換するという手技もなければ、免疫抑制剤も研究が進んでいませんでした。
しかし、臓器移植の手法が確立され、免疫抑制剤を効果的に使うことで定着させることができるのであれば、脳死状態で提供される臓器をフルに活用することができます。
今後、ES細胞の研究が進み、代替医療として確立されれば、適合するか分からない他人の臓器よりも、自分の体に合った臓器と交換するほうが理に適う時期がやがて来るはずです。
現に、背中に人間の耳が生えたねずみはみなさんも目にしたことがあるでしょう。
それまでの繋ぎと言う訳ではありませんが、今苦しんでいる人を救うための手段として臓器移植を使うことができるのであれば、それは素晴らしい技術であるわけです。
また、自分の体にあった臓器を作る技術も導入期には高額な保険外での治療となることでしょう。
その対価を払うことができない人々は、その頃には「枯れた技術」となるであろう臓器移植に頼らざるを得ないことでしょう。
そこまでを見越して、政府から啓蒙活動を行い、個々の生命に対する尊厳を植えつけていかないことには理解し、行動を起こす人というのはそう多くないことと予想が付きます。
人々が不慮の事故以外ではほぼ寿命をまっとうする現代社会において、尊厳死や延命治療、脳死状態での臓器提供に対する個々人の考え方を家族間で話し合うことも必要なのではないでしょうか。
最後になりましたが、臓器を提供した家族に対するケアというものをきちんとしてほしいと考えます。
とくに自分の子供の臓器を提供した家族に対しては、自分たちが子供の命を絶ってしまったという考えに陥りがちになってしまうでしょう。
その時点での状況、不可逆的な死に直面していたこと、その命で救うことができたという事実。
これらをきちんと伝え、サポートする体制も合わせての臓器移植法としていただきたいものです。