【会津若松弾丸ツアー その5】
時間も16時近くになり、いよいよ弾丸ツアーのメインである飯森山にやって来ました
時間も時間なので早速観光に行こうとしましたが、左手に「会津ソース串かつ 串鶴」を発見しました

ここまで歩いて気がついたのは、会津若松には以前ご紹介した福井市同様「ソースかつ丼」の店が結構あること

会津若松市と福井市でかつ丼と言えば「ソースかつ丼」のことを指し、この両市で対決企画なども催されているみたいですよ~

今回晩ごはんは違うものを食べる予定だったので、食べられないものと諦めていましたが

この店ならおやつ感覚で食べれるので、ありがたかったです

まずはサンプルをパチリ

なかなか風情があっていいでしょ

ここでオーダーしたのは定番の「豚串」

待つこと5分、あっつあつの「豚串」が出てきました

一口食べると~

『メッチャ美味~い



さすが、ソースかつ丼の町にも係わらず、串かつで勝負するだけのことはありますね

しかも、出来上がるまでの5分間にお店のお二人とは、すっかり話が弾み意気投合しちゃいました

こういう出会いがあるから、旅はいいですね

『これも食べてみて

お姉さんから人気商品の「芋けんぴ」をもらいましたが~

『これも美味~い



どうもご馳走さまでした

又、いつの日かお会いしたいですね

そして、いよいよ「飯森山」に向けて、元気よく出発しました

気合いを入れて歩いて行こうと思った時、右手から誘惑が~

『階段上るの大変だから、乗っていって~』

という感じでアナウンスしていましたが、意に介さずに歩いて行きました

しかし・・・

いやいや男が一旦決めたんだからと、根性で上りました

飯森山と白虎隊のことは、書くまでもないかもしれませんが、少しだけ触れると

新政府軍と幕府軍間で戦った戊辰戦争に際し、会津藩では藩士子弟により白虎隊が結成され抗戦した

しかし、彼らのうち20名が「戸ノ口原の戦い」で敗れ、飯森山まで逃れてきた

ところが、鶴ヶ城周辺の武家屋敷が燃えているのを落城だと勘違いして、自刃したという悲劇なのです

(落城していないと知っていたが、生き恥を晒したくないと理由で自刃したとの説もあります

そして、ここが彼らのお墓です

下の画像を見て、何か違和感を感じますか

正解はお墓の数です

実は一人分、撮り損ねて~

って、冗談です

その理由は、飯沼貞吉さん一人だけ蘇生されたので、この場で亡くなったのは19名なのです

そして、飯沼さんが生き残ったことで、ここでの白虎隊の悲劇が世に知れわたることになったのです

又ここには、会津藩主松平容保の書いた句碑がありました

『幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽しとぞ思う』
と、書かれた句は彼らにとっても嬉しかったことでしょう

ここからは彼らの足跡を少し追ってみましょうね

彼らは「戸ノ口原の戦い」で敗れ、この洞窟を通り、飯森山に逃げてきました

そして、この道を抜け

鶴ヶ城が見える山の中腹に来ました

そしてこんな風に

「鶴ヶ城」を見たことでしょう

分かりにくいので、少しアップしましたが、真ん中上部の緑の辺りがお城ですよ~

そして、この地で自刃したのです

今では「白虎隊自刃の地」として、年間200万人もの人が訪れているそうです

そして、少し離れた場所には、飯沼貞吉さんの墓がありました

一人だけ生きながらたので、辛いこともあったでしょうが、飯沼さんのおかげで彼らの想いが後世に残されたんですよね

そして「宇賀神堂」にひっそりと霊像が安置されています

忠義に尽くし、哀しき決断を下した白虎隊のことは、いつまでも大勢の人の心に残ることでしょう

次回は「会津若松弾丸ツアー」編、最終回です
