【会津若松弾丸ツアー その4】
時間も13時近くなり、弾丸ツアーもいよいよ後半
まずは、時間がない時の強い味方、周遊バスの「ハイカラさん」で移動しました
やって来たのは「会津若松城」
別名「鶴ヶ城」と呼ばれています
キレイな景色を眺めつつ、本丸を目指して歩いていると、突然の雨
全国的に晴れとの天気予報を信じ、傘を持ってこなかったのが大失敗
おまけにコンビニもなかったので、雨中行軍になりました
しかし、そのくらいじゃメゲません
「鐘撞堂(かねつきどう)」が見えてきましたが、雨で濡れている上に段差がスゴく高く
恐らく足を踏み外せば大怪我でしたが、気になったら止められない性格なので
よせばいいのに、根性で上りました
この1枚の写真を撮るために
我ながらアホですね
そして、天守閣が見えてきました
さすが天下の名城、威風堂々としていますね
「鶴ヶ城」は蒲生氏郷が築いた後、会津若松藩の居城となりました
戊辰戦争の際は、板垣退助率いる政府軍に攻められ、1月以上持ちこたえたものの
その後降伏して開城しました
今ではこんなにのどかな雰囲気ですが、実は悲しい歴史があるんですね
早速500円を払い、中に入りました
ここはエンターテイメント性に富んでいて、火縄銃や日本刀を手に取ることができますが
火縄銃の重さにビックリしました
そして、最上階から見た飯森山
(真ん中やや左の辺りです)
松平容保を始めとする城兵たちは、自ら戦うのに必死で
まさか飯森山で悲劇が起こっているなど知る由もなかったことでしょう
と言うより、松平容保が京都守護職を引き受けなければ、日本の歴史も随分変わったんでしょうね
「干飯櫓」も復元されていて
往時の状況をわかりやすく展示していましたよ~
やっぱり「鶴ヶ城」はこの角度が一番格好いいですね
そして千利休の息子少庵が建立した「麟閣(りんかく)」もありました
千利休亡きあと、彼の茶道が途絶えるのを惜しんだ蒲生氏郷は、少庵を匿いつつ、豊臣秀吉に「千家」を願い出ました
その結果、少庵は京都へ帰り、武者小路千家・表千家・裏千家が興され、現在に至っています
蒲生氏郷がいなかったら、今頃茶道はどうなってたんでしょうね
そして、ここにも地震の傷跡が痛々しい姿で残っていました
次に訪れたのは「会津武家屋敷」
武家屋敷は残念ながら戊辰戦争で消失したので、家老西郷頼母邸を復元したものなんです
当時の面影を忍ぶように
人形を使って、展示していました
そして、ここには佐々木只三郎の墓もありました
この名前を聞いて、ピンと来る人はかなりの歴史好きな方ですね~
実は佐々木只三郎とは、あの坂本竜馬を斬った男
実直な会津藩士だった彼だけが責められるべき問題ではないですが、竜馬には生き続けてほしかったです
そして、オリジナルのぬいぐるみ「べこ太」もありました
とってもキュートでしょ
その後に訪れたのは「近藤勇の墓」
近藤勇の墓は他の場所にもありますが、ここは土方歳三が近藤勇の死を知って建立したとのことです
墓の中には何もない
髻(もとどり)だけが入っている
京都でさらされていた首が埋められている
との諸説ありますが、真相は謎に包まれています
時間もあまりないので、早足で歩きましたが~
行けども行けども辿り着かず、遂に藪道に入り~
漸くたどり着きました
この墓を眺めていると、流山で新政府軍に出頭するという
近藤勇の行動を止めることができなかった土方歳三の悔いの言葉が聞こえてくるようでした
会津若松に来てみると、しみじみと幕末の歴史に想いを馳せることができましたよ~
そして、次回はいよいよ悲劇の舞台へと移動します