音がよければ演奏の感銘度は増す。一応これは事実でしょう。20世紀には大規模な世界大戦が繰り返される中で、戦略上の必要から音声を拾う技術が目覚ましい進歩を遂げました。自分の音が実演のように聴けるようになった時の演奏家の気持ちは、今まで水面を覗いてしか見ることができなかった自分の顔を、初めて鏡に映せるようになった時の人類の驚きに似ていたかも知れません。
そして21世紀の現在に至っても、録音の品質は演奏技術とともに向上の一途を辿っていると信じる人が少なくないようです。いつだったか私は、LP初期のモノラル録音やステレオ初期の目の覚めるような優秀録音を、もはや古臭い音だと吐き捨てるように言う愛好家に会ったことがあります。
私個人は音質について考える場合、美しさとか解像度を基準にするよりも、先ず鳴っている演奏の実在感というものを重く見る方です。ノイズが少ない、パート間の分離が良い、顕微鏡のように音の細部が見えるといった事は、一点ごとに見れば録音機器の精度の証しにはなるかも知れないが、それらの長所が一塊となり眼前に本当らしい音場を現出せしめるかどうか、これが芸術鑑賞上では肝要になると思っています。録音技術を音楽と演奏を引き立たせる為のものだとするなら、1960~70年代のレコード録音は、すでに演奏の美質をいささかも曇らせない程度の高い水準に達しています。また人によっては、質的なピークを1980年代、あるいは逆に古いモノラル録音の時代に置くかも知れません。
私自身も弦楽器の独奏を聴く場合、PCM録音も横長のステレオの音場も不要なのではないかと、ふと考えることがあります。SP盤の良質な復刻LPでクライスラー、ティボー、カザルス、或いはブッシュのカルテットを聴いていると、人の心を捉えて離さないその根源的な音の力に陶然としてしまう。余計な介在物のない、実に純粋で骨太な楽器の音がスピーカーから聴こえてくる。彼らの演奏が際立って高尚だから、あえて音の貧しさには目をつぶろうという事では決してない。
それに比べて現在の最新録音、テレビ番組、YouTube等で聴くヴァイオリンは、どうも現実離れのした架空の世界から流れてくる音に感じられて仕方がない。弦の金属音が異様に強調されたり音の重心が軽かったりと、日進月歩と言われる技術を駆使した録音であるのに、素朴な意味での忠実な音の再現からは遠くなっている。録音の進化とは何か。音が古臭いとはいかなる意味なのか。現在の音楽シーンに接していると、通説への数々の疑念が頭をもたげて来ます。
思えばCDが一般家庭に普及する以前、この世で聴ける再生音といえば、摩擦によって起こる持続音だけでした。テープはヘッドに当て、盤は針でこする(ラジオ、テレビの音楽も、生中継でなければアナログのテープやレコードの再生音だった)。発音原理の似た擦弦楽器はLPで一層それらしく響き、鍵盤、管、人声もそれぞれに生々しく鳴る。この見事なまでに美しく昇華された摩擦音は、いくら習慣的に耳に刷り込んでも人間の感性を不健康にはしないでしょう。
しかし時代が下った今、デジタルの断続音は好むと好まざるとに関わらず、我々の生活上のあらゆる場所で幅を利かせるようになりました。個人のオーディオ鑑賞の領域ではアナログを偏愛することができても、毎日耳にする街中のBGM、電話相手の声、ネット動画の音声は全てデジタル信号に置き換えられたものです。アナログの素朴な音、豊穣な響きに触れる機会が減ると、ややもすると人間の頭脳は、デジタルの音声こそ目指すべき自然な音なのだと認識するようになる。音響の技術者や愛好家に限った話ではなく、昨今の若い楽器プレイヤー達も、デジタルの弦の音を我知らず模倣しているようなところがある。一口に言えば、彫りの深さがない。電子音に毒され始めたと言うより、そもそもアナログ盤による再生音を聴いた経験のない人が増えているのだろうと思います。
私とて日頃、蓄音機でSP盤を聴ける環境にはないし、CDやSACDもそれなりに楽しんで聴いている者です。しかし10数年前にLPを併せ聴くようになってから、楽器や人声、録音に対する耳の感覚に或る変化が生じ始めたと感じています。従事している楽器調整の仕事においても、いろんな点で美的な判断基準を改めざるを得なくなった。言葉では説明しにくいのですが、あえて書けば、絵に描いたような美や目に見える性能を求めるばかりでなく、より多重な意味を含んだ、包括的な音楽の姿を追うようになった気がします。
