文章というのは、語られている内容も大事ですが、語調や話の速度感、漢字と仮名の使い分け等によっても印象を大きく異にします。

広告文や新聞の匿名の論説などと違い、文筆家の作品には無色透明な性質のものは少ない。主観が強く、時に詩的な飛躍があり、一般人の文に比べてそれぞれ独自の癖を持っているのが常です。しかし、そこがまた作品の旨味にも個性にもなり得るところなので、私は随筆、小説を問わず、ある一冊の本を読んでいるうちは、まず筆者の口調には寛容になろうと努める方です。


けれども、どこまでページを進めても文体に目が慣れて来ない場合もある。例えば音楽評論家の吉田秀和などは、昔から感覚的にしっくり来ない文章家の一人です。

最近読んでいた吉田氏の文章より。

「昨年の末、仕事の都合でフルトヴェングラーのレコードを、少しまとめてきいた。とてもおもしろかった。私は、時にふれ、レコードのことを書いてはきたものの、長い間にわたるレコード愛聴者とはとてもいえないような生活をしてきた人間だから、フルトヴェングラーのレコードでも、知らないものがたくさんある。むしろ、まとめてきこうと思って集めてみると、そのあまりに多いのにびっくりしてしまった、というのが出発点になるくらいだ。そうして、それらのレコードにのっている解説を読んで、その執筆者のくわしいのに感心しきれないほど、感心したというのが、いつわらざる気持であった。」(『雑感 フルトヴェングラーのレコードから出発して』冒頭より)


ラジオ番組の口述筆記だろうかと思ったら、普通に作品として書き下ろした文だった。意識的にやわらかで平明な雰囲気を出そうとしていて、平仮名と読点が目立つ。漢字ばかりの文が高尚なわけではないですが、柔らかみも程度のもので、ここまでされると何か読者の知的レベルを下に見ている風にも感じられる。読点の多用は、彼がライバル視していた文芸批評家、小林秀雄を思わせる特徴ですが、吉田氏にあっては、特に何ほどでもない語句をいたずらに価値付けているだけのように思えます。

内容的に見ても、とりとめのないお喋りに付き合わされることが多く、結局何が言いたいのかその焦点がぼやけ気味になるというのが、吉田氏の著作に対する自分なりの印象です。


評論家の宇野功芳、剣豪小説家の五味康祐の書く音楽エッセイは、もっと直情的な性格を持つ文章でした。個人の思い込みや偏見が許容されなくなっている昨今では、この二氏のような著作は異端視されかねないでしょう。時折、彼らは私の好きな演奏家を批判以上の言葉で貶すことがありますが、不思議とそれで読むのが嫌になるという事はない。少なくとも各氏の文体には、妙な軟体動物風なところはなく、個人の痛切な音楽愛が正直に文面に出ているという点で好ましく思っています。さらに五味氏に至っては、私事と作曲家、レコード音楽を絶妙に絡ませながら、自叙伝風に一編を構築するという大胆な手腕を持っています。

吉田氏の音楽的教養の高さは疑いようのないところで、私はその点での信用から氏の書いた本を数冊所持しています。しかし、文章によってしか成しがたい表現への執着、文章家としての矜持の強さにおいては、その方面で確たる地位を築いた小林秀雄と同列に置くことはできないと思っています。


知識や思いを文章にする以上、言っていることが正しいというだけでは足りない。そこには文芸としての興味深く「読ませる力」が必要で、また文体と内容は容易に切り離せるものではない。短歌や詩を書くときに、意味が同じであれば文語でも口語でも構わないと考える人はいません。ある作家が好きだという感情は、説が正論であるという事よりも以上に、その文が持っている独特の調子を愛するという事と密に関わっている気がします。私の場合、文士では小林秀雄、五味康祐、火野葦平、尾崎士郎、松本清張、五味川純平、相馬御風・・、音楽評論家では山根銀二、野村光一、志鳥栄八郎、宇野功芳各氏の文章を好んで読みましたが、こうして並べてみると、自分は一本筋の通った気骨と、仄かな情緒や熱情が渾然となったような作品を好んでいるのだろうかと感じます。