乃木将軍・凱旋言志
肉筆・紙
・・・・・・・・・・・・・・
王師百万 強虜を征す
野戦攻城 屍 山を作す

愧ず我何の顔あって 父老に看えん

凱歌今日 幾人か還る


皇軍百万は強虜ロシアをうち懲らすため満州に出征した。さすがに敵の備えは堅く、原野の戦いや要塞の攻略に戦死者の屍骸は累々と山を成したのである。

 幸いに勝利を収めて凱旋することになったものの、このような多数の将兵を死なせた自分は、故国に待つ兵士の父老に対してどの顔をさげて会うことができるだろうか。また勝ち戦の歌を歌いながら今日故郷に帰るのは、百万人中何人いるだろうか。

(以上、関西吟詩文化協会のページより抜粋

)

・・・・・・・・・・・・・・
1904年に火蓋が切られた日露戦争の中で、最も重要かつ熾烈な陸上戦を強いられることになった満州軍第三軍。その第三軍司令官として旅順包囲戦の指揮を任ぜられたのが乃木希典将軍でした。
難攻不落と言われた旅順の要塞は容易に攻め入ることができず、性急に三度の総攻撃を行い幾万もの犠牲者を出した乃木軍司令官に対し、政府では更迭論が出て、国民の間でも激しい非難が巻き起こりました。しかし、それはバルチック艦隊が日本近海に到達する前に旅順軍港のロシア艦隊を叩いてほしいという海軍の意向を陸軍が呑んだことで起きた悲劇とも言え、乃木は断じて司馬遼太郎が文芸小説で描いたような無能な指揮官ではなかった。近年、軍事に詳しい歴史家達の努力により、軍人乃木への客観的な正しい評価が定着しつつあるのを私は非常に嬉しく思っています。

また開戦以来、海軍側は黄海海戦と旅順港閉塞作戦で失敗を繰り返しており、その尻拭い、つまり軍港の艦隊を潰す役目を陸の満州軍に押し付けたという経緯があります。バルト海からはるばる航海を続けるバルチック艦隊との海戦に全力を注ぎ込みたいというのが海軍の腹でした。たとえば秋山真之は東郷平八郎の右腕、名参謀などと言われ戦史好きの中にはファンが多いようですが、戦中に第三軍に宛てた手紙では、次のような目を疑うことを書いています。

「旅順攻略に四、五万の勇士を損ずるも、さほど大いなる犠牲に非ず。国家存亡に関すればなり。眼前死傷の惨状は眼中に置かず、(乃木第三軍は)全軍必死の覚悟をもって、この目的達成に努むるほか、他に策あるべき筈なし」

乃木第三軍の面々が怒ったのは言うまでもない。己れの失態は棚上げにして、みずから体験もしない死闘のむごさを当事者に対しこのような言葉で表現する人間を私は好きになれない。人物の底が見える思いがします。


けれども陸軍を取り巻く状況がどうであったにせよ、真面目な乃木将軍は司令官として数万の犠牲者を出したことを終生悔い続け、戦死した兵士の家族を一軒ごとに訪ねてお詫びしたと伝えられています。秋山と比べ何という情け深さだろうかと思います。
軍人として天皇への忠義が最も厚く、公私にわたり武士道的礼節を重んじた乃木大将。地獄の様相を呈した戦場にあって第三軍の精神的結束が最後まで崩れなかったのは軍司令官の人徳の故だったと言われており、兵士達はみな我が大将のために勇気を奮い起こして死地に赴いたという事です(明治天皇は乃木の存在が第三軍の心の支柱であることを理解しており、政府の乃木更迭論を斥けています)。
その人格は二百三高地陥落後、水師営で会見した敵軍のステッセル将軍にも通じ、両軍の将はまだ戦争継続中にも関わらず互いに心を通わせてその武勲を労いました。ただロシアは復員した軍人に対しても無慈悲な国で、戦後ステッセル将軍は国家への忠誠を尽くさなかった者として死刑を宣告されます。それを伝え聞いた乃木大将はロシア政府に嘆願書を送り、おかげで将軍は極刑を免れることができました。

凱旋の詩は爾霊山(二百三高地)の詩などと並び乃木大将がよく揮毫した作品の一つですが、私の知る限りこの漢詩を飄々と書き流した書は見たことがありません。詩文の意味をみずから噛みしめ、勝利とは裏腹の深い苦衷を滲ませたような筆運びが印象的です。書としてもむろん骨太の立派な作品には違いないですが、多少なりとも日露の戦の史実を知る者として、これを単に美的鑑賞の対象として眺めるのは恐れ多いという心持ちにもなります。