このたび糸魚川の相馬御風記念館が主宰する「御風会」の会報『洗心』に拙文を掲載して頂きました(2024.12.1発行)。まだ先月に発行されたばかりですが、全文をSNSに公表する許可を得たので一応当ブログにも紹介致します。許可というよりは、当会報に出す文章は一般の有料新聞への寄稿文と違ってどこに掲載するのも執筆者の自由で、特に会に著作権が渡るというわけでは無いようです。また一字一句、読点に至るまで校正を受けることはなく、当方が作成したデータを尊重しそのまま掲載してもらえたのも嬉しいところでした。

 今回が初めての寄稿となり、依頼された時は何に的を絞ろうかと迷いましたが、先ずは御風の芸術活動全般の中でも比重が大きい分野である書芸をテーマとした短文を書くことにしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「御風の書の魅力」

渡部 匡 


 拙宅には現在、二十点近くの相馬御風の肉筆遺墨がある。すべて私自身が筆者への興味から集めたもので、軸物、扁額、短冊や色紙の額などから、折々の心境に合うものを選んで自室に掛けることをひそかな楽しみとしている。 

 今から七、八年前に知った事だが、私の曽祖父にあたる渡部坦治は、大正九年から十四年まで糸魚川高等女学校の校長を務めており、仕事その他を通じて御風とは長く交流を持ち続けたようだった。そして坦治の長男である祖父・渡部元は、御風のすすめにより早稲田大学へ進んで文芸活動に耽り、かなり下った戦中の昭和十六年には「木かげ」の同人となる。嬉しいことに先年、御風会の金子善八郞先生のご尽力により、戦後のある時期までに、祖父が二百首以上もの歌と万葉集研究論文を雑誌に寄稿していた事が明らかとなった。

 昭和十九年に御風から祖父宛に届いた一通の封書が、今私の手許にある。便箋六枚に及ぶその手紙を最初に父から見せられた時、闊達で心細やかな文意もさることながら、万年筆による縷々とした文字列の勢いに大層心を動かされてしまった。まさに氏の芸術に傾倒するきっかけとなる邂逅であったが、書の専門的な審美眼など持ち合わせない私としては、この遺墨蒐集は先祖二人の御風との深い縁が導いた末の執心、執着であるように思えてならない。 

 昔の文人の遺墨は皆それぞれに能筆で味わい深いものがあるが、とりわけ御風と良寛の書を眺める時、私は特別に胸の奥が清く澄みわたってゆくのを覚える。形の美醜、技巧の精度などがいかに作品の完成度を左右する要素であるかは承知しているつもりだが、御風の書はもっと人間に大切な根本的な何ごとか、例えるなら朝の日の光や山の清水の恵みに通ずる、人心を素朴な感動で満たしてゆく力を秘めているように思う。自然体の柔らかな線、大空を仰ぎ見て存分に手を動かしたようなおおらかさ、運筆の背景にある精神の清らかさと気品。これらは多少とも氏の書芸に触れたことのある人ならば、比較的感取しやすい美点ではないだろうか。 

 また御風の書は、長く壁に掛けていて見飽きるという事がない。印刷物では判じ難いところかも知れないが、当初は柔らかみがあって佳いと感じた程度の書も、時を経るごとに精神力を内に蓄えた貴ぶべき作品に見えて来ることがしばしばある。書体そのものは、良寛に似てあくまでも普段着風である。ただ私の印象では私淑した師ほどに侘びた風情は表立っておらず、越後の冬の厳しさを直接に想起させるところもない。病に臥すことの多かった晩年に至ってさえ、雪解けの春の水さながらの若々しい気風と童心を紙面一杯に現しつづけた書人であったように思う。

 東北地方に住む私にとって、御風の書は、日常と遊離した糸魚川の山海の穏やかな風光、あるいは地元の人々の温かい親切心といった、旅中に味わうしみじみとした情趣と相重なる世界でもある。自然の風物と、そこに働く漁民や農民の姿にたえず関心を寄せ続けた御風は、人々の生活上の哀楽を、みずからの芸術行為と別ち難いものとして尊ぶことのできた人道の士であった。糸魚川の風土を知悉することは、また必然的に、御風の遺墨と文芸への親しみの情を深くすることに繋がるものと私は考えている。

 (『洗心』34号・p.2)

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会報に掲載した一行書「白雲悠々」
御風晩年の書。

以下、架蔵する御風遺墨を数点だけ載せておきます。
一行書「春来(キタ)れば花自ずから開く」

歌幅「たけの子のごとくますぐにのびのびとそだたぬものか人間が子も」

歌幅「夜をつもりあさひにとくるしら雪のをのへの松の色はゆる見ゆ」

扁額「道無限」