ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト長調

ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)
マルセル・ガゼル(ピアノ)
録音:1955年(使用LP:RCA LM-2014 モノラル)
発売:グリーンドア(CD)GDCL-0046

ルクーのソナタはグリュミオーの2度目の録音とボベスコの81年の日本録音も大変気に入っていますが、メニューインの再録盤は、壮年期にあったこの巨匠の全存在を投影したような力演で、私にとってはことのほか感銘深い一枚です。

フランクのソナタと同様、フランコ=ベルギー派の粋と言うべきグリュミオー、ボベスコの方が曲本来のスタイルに近いとは思います。彼らの演奏は特定の文化圏の言語で以て響いてくる音楽で、美酒の香りに満ち、技巧が洗練され尽くしていて聴きやすい。もちろん香り高さと洗練味は39才のメニューインにも認められますが、必ずしも表面上の美点としては聴こえて来ない。例えれば彼が得意としたブラームスの第3ソナタ、バルトークの無伴奏ソナタなどを弾く時に似て、音に幾らかほろ苦さを含んでおり、物憂さ、含羞、怒り、歓喜といった細かな感情の移ろいを全身的に現した演奏です。夭折したルクーの作品にブラームスの年輪や熟成を見るのは筋違いだと言う人もあるでしょうが、ここでの奏者の曲への没入ぶりは正統な解釈を凌ぐほどの雄弁な音楽を生んでいます。


LP初期のモノラルの音質は、こちらの注意を一点に集中させずにおかない強い求心力があり、小編成の演奏の体温を感ずるには全く理想的なものです。ストラディヴァリウスの中でも一級の部類に入るメニューインの愛器は、何気ない呟きのようなパッセージさえ背筋に重みがのし掛かるような量感をもって響く。音質、音楽づくり共に非常に彫りの深い演奏です。またマルセル・ガゼルの陰影のあるピアノも素晴らしく、難曲と言われるこのソナタの伴奏として特筆されて良いものでしょう。

当録音の4年前の1951年にメニューインが初来日した時に、文士の小林秀雄は5度も会場に足を運んでいますが、氏は世界大戦を境に長らく味わうことが出来ないでいた本格的なヴァイオリニストの音を聴いて大いに満足し、朝日新聞紙上に次のような感想をしたためています。


「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処へやらけし飛び、私はふるえたり涙が出たりした。(略)たゝ"、私は夢の中で、はっきり覚めていた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴板を、ひたすら追っていた。あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った。」

(「メニューヒンを聴いて」より。初出題名は「あなたに感謝する」)


40年ほどメニューインを好んで聴いている私には、作品解釈云々よりも名器の妙音に一場の夢を見て賛嘆を惜しまなかった小林秀雄の気持ちがよく理解できます。並の良いヴァイオリンで生真面目に技を磨く大多数の奏者と、13才からストラドやデル・ジェスばかりを弾いてきた奏者ではやはり音楽づくりに歴然とした風格の違いが出てくる。普通は手にすることのできない極上の楽器に選ばれ、自ずからその色合いを生かして奏するヴァイオリニストならではの詩魂を、小林氏は芸術家の鋭敏な耳で感じ取ったのではないかと想像します。

来日時に遺した東京での録音に比べると、メニューインの演奏は内面性を重んじる傾向が強まっており、あまり表面の体裁にかまけずに曲の魂と交信しているところがあります。1950年代以降の彼の芸風の変化を、単純に腕や指先の精度の問題として片付ける人が少なくないようですが、私はそれ以上に彼が一個の芸術家として洞察を深め、ヴァイオリン演奏に絵のような美しさばかりを求める事に飽き足りなくなったことが大きな理由だと思う。フルトヴェングラーとの芸術的邂逅をはじめ、成人後にも余人を凌ぐすぐれた音盤が多数存在していることは、メニューインを評価する上で見逃してはならないところです。事実このルクーも、早熟の天才の後日談としてではなく、思慮深いヴァイオリンの賢者の遺産として貴ばれるべき記録であろうと思っています。