石井勲・著 (致知出版社)
「大学」は政治家を志す人のための特殊な書物のように思われていますが、他の職業にある人がそれぞれの立場で身を修めるにも同様の価値を持つと言って差し支えない内容です。
昔々、二宮金次郎少年が薪を背にしながら月明かりの下で読んでいた書はこの「大学」だったと言われています。いつだったか近年、小中学校に設置されているあの金次郎像について「歩きスマホ」を助長するものとして撤去を求める意見が出たことがありました。その訴え自体は閑人の下らないこじつけとしか言いようがありませんが、本書を通読してみて、確かに歩きながらつい夢中で読んでしまいそうな面白い書だと思いました。
子供が支那古典の『大学』を読んでいると聞いて怪訝に思う人があるかも知れませんが、実はこれは金次郎に限ったことでなく、江戸時代のひとかどの家では子供の修養、躾として3才頃から四書すなわち「論語」「大学」「中庸」「孟子」の素読を普通に行っていました。7、8才ともなるとさらに学問的な読書の幅が広がったというから驚きですが、これは言葉の意味を解するのは後に回し、まずは音声で早い段階から学問の根幹をなす言葉を頭に刷り込ませるという方法です。明治以降はこの慣習が廃れてゆき、とりわけ戦後になると、日本人は人間たる者の基礎などろくに教わらないまま、西洋の文学や哲学、その他広く浅い知識で頭を一杯にしながら社会に出て行くようになりました。
私自身、今さら子供の頭に還ることなどはできませんが、やはり原文を追っていると純粋に楽しく、読まないよりは読んだ分だけ、社会人として欠くことのできない心の安定、覚悟が得られるように感じています。今回は碩学・石井勲氏の丁寧な解説を頼りにしながら、古典の短い漢文に潜む大いなる思想をじっくりと学び味わうことができました。
なお松下政経塾では当初、松下幸之助氏と交流の深い学者・安岡正篤氏に講演を依頼したが、古典ならば私より石井君がよいだろうという安岡氏からの返答があり、石井氏によるこの「大学」講義が実現したということです。また石井氏は朱子の「大学」解釈に準じた講義を行っており、王陽明流の読みを採る安岡氏の著作とは部分的に主張が異なっています。
