今春、糸魚川市の相馬御風記念館から、「御風会」の会報『洗心』への寄稿文を依頼されていて、ようやく先週に原稿データを送ることができた。8月末が一応の提出期限だったが、夏場は仕事その他でやることが多く10日ほど脱稿が遅れてしまった。

原稿用紙3枚分、写真を貼る場合はスペース確保のため字数を減らす、という条件。先方に迷惑をかけてはいけないので字数は守るつもりだったが、写真を2枚付けた上に文章も200字ほど超過してしまった。提出前に事務担当者に問い合わせてみたところ、他の執筆者の文章が短くなることもあるから行数については厳守しなくてもよいとの事だった。今のところ編集者から訂正の依頼は来ていない。

当初は手書き原稿を提出するつもりでいて、何度もノートに下書きしてから原稿用紙に清書をした。ところが後からくだくだしい表現を改めたり熟語を適当な語に変えたりして、下書きのような体裁になったため、結局同じ文章をワードアプリに打ち込んで記念館へ送信した。最初からワードを使っていればもっと時間を短縮できたはずだが、手書きで文を作る方が何となく仕上がりが良いように思われ、結果として無駄な苦労にはならなかったと思っている。
このアメーバブログを、まさか手書き原稿から始める人はいないと思うが、少しあらたまった文を作る場合はパソコンやスマートフォンのキーを叩いているだけでは、どうも内面的な力を欠いた文章になりやすい。文学作品や小説を読んでいると、不思議にその人の原稿の書き方までが想像できてしまうもので、画面上で言葉や文を取っ替え引っ替えして拵えた作品は、表現が凝っている割にどこか文の流れが悪く感じられる。

活字になった時の文の姿を想像しやすいこと、簡単に修正ができること、作文の進度が早いこと、これら一見長所と思えるパソコンの利便性は、内なる思いを伝える文を書くにあたってはむしろマイナスの要素にもなりかねないのでは無いか。手書きの場合は後からの修正が面倒になるので、マス目に書きこむ前に想像裡で表現の仕方をあれこれと工夫する必要がある。確かにこの方が難しいし、頭は疲れる。だが心の動きに近い語順や語調で文ができるとも言える。その人特有の悪い癖も出やすくなるかも知れないが、個人の名で書く文章は、下手でも各人らしさが現れている方が作品的価値があると私は思う。

現代には事実上、物を書かない物書き、筆を執らない執筆家が大勢いる。それらはもはや直接に行為を示す言葉ではなく比喩的な呼称になりつつある。字を書かないことと痴呆症の因果関係を指摘する人もあるが、まあそこまで話を広げなくとも、文を作る時くらいは、電子の画面に頼らずに自分自身の内面と静かに向き合ってみても損にはならないと思う。

2020年発行の『洗心』の表紙⬆️

この道は限なき道いきのみの
生きのかきりはうたひとほさな
御風