小説『羆嵐(くまあらし)』
吉村昭・著
(新潮文庫)

本作は大正4年、北海道天塩山麓にある新興の開拓村で起きた、日本獣害史上最大の惨事「三毛別羆事件」を吉村昭氏がノンフィクションに近い体裁で小説化したものです。
世間には「Wikipedia三大文学」といって、SNSやネットで特に話題となっているWikipediaの記事を指す呼称があるそうですが、「地方病」、「三毛別羆(さんけべつひぐま)事件」、「八甲田雪中行軍遭難事件」がその三項目に当たります。そして「三毛別」の事件を扱った書籍のうち、吉村氏の『羆嵐』は記録文学として評価が高く、現在も新潮文庫で入手できる名作です。
たった2日間で7人の命を奪い、うち女性2人を食べ尽くした冬眠前の巨大ヒグマ。役場では獣害現場の六線沢とその付近の住民のために退治を急がねばならず、区長の呼びかけにより、近隣の居住者を含め数百人の男たちが六線沢に集結する。全員の指揮統率は羽幌警察分署の署長が行った。しかし銃を所持する村人、三毛別の区長、多くの志願者、警察機関の人間はいずれもヒグマ退治の経験がなく、血気盛んだった者たちもいざ暗闇にうごめく獣を前にすると恐怖で身動きが取れない。銃は手入れが悪くて不発に終わることも多い。それ以前に、敵が姿を現さない時でさえ、皆が夜の闇の中で獣の黒い幻影に怯える始末だった。
このような状況を見かねた区長は、酒乱で素行は悪いが羆撃ちの名手として知られる一人の男に仕事を依頼する。指揮を執る分署長は、社会的に問題のある人物を自分に断りなく雇ったことに不快感を示すが、頭の良いヒグマの習性を熟知し、射撃の腕も確かなこの猟師が、最終的には事件を一転解決に導くことになる・・・。

著者は綿密な聞き込みと現地調査により、史実に近い物語を創出することに成功しています。冗長な描写を避けた簡潔な文体でありながら、厳冬の山間の村を恐怖に陥れた事件の緊迫感、不気味さを読者にまざまざと想像させ、羆狩りの渦中に我々を引き込んで行く。現示的な激しさを持つ劇画や映画で見るよりも、獣害のおそろしさが記憶に深く長くとどまります。
ライオンやトラの生息しない日本列島において最強の動物はクマだと言われていますが、本州のツキノワグマとは比較にならない体躯と獰猛さを持つ北海道のヒグマは、人間の接し方次第でなだめられるような愛らしい相手ではない。殊に冬眠前は空腹を満たすことしか眼中になく、むろん人間もそのための獲物の一つに過ぎない。また一度捕らえた食物への執着が凄まじく、遺体の残る民家に二度押し入り、残った肉や骨まで漁る残忍さを持つ。特にこのヒグマに限っては、六線沢より以前の経験から女性の匂いを追いかける習性が身に付いていた。
著者も触れているとおり、元を正せば明治大正期に拡張された開拓地の範囲がヒグマの生息域に重なったことが悲劇の原因となったわけで、それを思うと動物だけを悪魔のように忌み嫌うことは出来なくなる。しかしヒグマが人間の味を覚えた以上、六線沢から人々が退去すると今度は他の村へ触手を伸ばす恐れがあった。これを仕留めるには冷静で動物的な勘と、自分が殺るか殺られるかという究極の覚悟をもって挑まなければならない。中盤から登場する老猟師は、作中で最も個性的な光を放つ存在です。普段は暴力的で評判の悪い人物だが、ヒグマ退治に従事する間はいつもと違う厳粛な面持ちになり、同胞の悲劇を心底から悼み、寡黙なまま山林へ分け入る。常日頃そういう苛酷な状況下で仕事をしている猟師という存在に、深い畏敬の念を抱かせる作品でもあります。

🔼
六線沢の事件現場に再現された、当時の民家とヒグマ。