太宰治の熱心な読者にはなり切れない自分ですが、代表格の小説の幾つかは何度か読み返したことがあります。「人間失格」を通読したのは今回で四度目くらいになるでしょうか。同じ小説を繰り返し読むのは稀なことだから、まんざらこの作家を毛嫌いしている訳ではないのかも知れません。

本作はあくまでもフィクションであり、物語は作中に置かれた或る男の手記という体裁で展開される。小説であること、書き手の「私」の存在と物語を区別していること、この二重の枠が、絶望感に囚われた男の独白を少しは一般読者に受け入れやすいものにしていると思います。
手記の筆者は、ナルシストで人騒がせなダメ男。浮世を欺瞞に満ちた世界だと思い込み、他人を恐れ、道化の塊である自己を嫌悪し、一応画家ではあるが、多くの女性に甘えながら堕落した生活を送っている。度々思い直して、自分だけは純粋、無垢な魂を保って生きようと努めるが、結局絶望しては薬を飲んだり、女と心中を試みたりする。おそらく太宰自身の人生経験を大きく膨らませ、より倒錯した自意識の持ち主に仕立て上げたのだろうと想像されます。
しかしダメ男というのは小説の素材であって、その自伝だから低劣な文学作品だという事にはならない。主人公の奇異な言動に共感できないまでも、最終項まで人を惹き付けて止まないのは、やはり太宰のたぐい稀な語り口の所以でしょう。心情の描写力にすぐれ、退廃的なことを書いていても、文章はつねに緊張の糸が通って洗練されている。自分の中で読者の顔がありありと見えていて、相手の好むテンポ感に合わせて絶妙に言葉を紡いでいるような、そんな印象を受ける。文章家としての太宰は、文体にまでこだわり抜く几帳面な人で、断じて締まりのない独りよがりの作家ではありません。

私もすでに多感な若者ではなし、これを読んで俄然周囲が暗く見えたり、自己嫌悪に悩まされたりはしない。世の中には主人公・葉蔵の言うように、利己心を隠して善人ぶる者が、なるほど少なくはないかも知れない。けれども根っからの悪人が常人より多くいるとも思わない。また私個人は対人関係において、他人と自己をあまり意識的に比較しない質で、意識するほどに人間は傲慢不遜になったり、精神が不幸になりやすいと思っている。実際のところ、エリート意識、階級意識、知的コンプレックスの持ち主、つまり他人を下に見たり上に見たりしながら生きている人間を好きにはなれない。
自分らしさ、自尊心、と言うが、我々が他人のおかげで生きていられるとは、社会がこしらえた方便ではなく客観的事実だ。美味しい白米を食べ、綺麗な水を飲み、毎年のきびしい暑さ寒さを凌ぐ。大きな事はおろか、こんな生活の根本となる営みさえ、人間は自力では何一つできはしない。どうして自分という存在だけを意識の中心に置いて可愛がる必要があるだろうか・・。
等々、今回は葉蔵に向かって、あれこれ取り留めのない事を呟きながら読んでしまいました。が、そうは思いながら、これはもう救いがたい人間だと呆れながら、彼の手記には所々に箴言めいた批判力を感じたり、まるで天からの光明のような、晴れた日の野原や小川に出でた時のような、穏やかな美をたたえた言葉が見つかったりする。感覚的な快さばかりでなく、常識人を説得しうる厳しい倫理観を感じさせる場合もあるから恐れ入ってしまう。

太宰は、相当な年月を費やして推敲を重ね、戦後三年目、情死を遂げる直前に本作を発表しています。実際にはこの後に書いた小篇が幾つか存在しますが、まず「人間失格」をもって作家人生の総括を意図したと見ていいでしょう。虚無、堕落、不道徳、正義感、自虐、道化、愛情、倫理観・・彼の小説群には沢山のキーワードがちりばめられていますが、「人間失格」を読んだところで依然糸のもつれは解けない。書いた本人にだって遂に複雑過ぎて解きほどくことはできなかったのではないか。お道化者が精神病院に入る末路までを告白した手記から受け取るものは人それぞれでしょうが、少なくとも、太宰が文士としての矜持を持って無垢な魂に近づこうと努力し、人の何倍も苦しみ喘いでいたことは分かる。ただ単に陰鬱にならず、ある種の清々しい読後感が残るのは、人間的な生き方を求め続けた彼の魂の片鱗に触れるからだろうと思います。