太宰治生誕百年の2009年に発行された『恋の蛍』は、山崎富栄、太宰治に焦点を当てた興味深い小説ですが、内容が重いこともあり、15年前に買ってから今まで読まずに放っていました。このたび読了して深く感銘を受けたので、思ったことを記しておきます。

こういう選択でみずからの生涯に幕を引くことは、当人と関わりの深い人々のこうむる精神的痛手を思えば、身勝手きわまる行為だと言われても仕方がない。いつの時代にもこれは常識として通る考え方でしょう。けれども二人それぞれの人生に対して、公平に親身に寄り添い、悲しみや虚脱感から立ち直ろうと喘いでいる者の内面に分け入る著者の共感脳に従っていると、あの結末が至って自然な思考や想念によって導き出されたように感じられてくる。二人とも普通の何倍もの濃い人生を見事に、ある意味では純粋さに徹する形で生き切ったのだ、という妙な納得をしてしまう。妙ではあるが感無量の読後感が残る。おそらく大方の読者も彼らの行為について、世間の常識を楯に誹謗したり、生きてこそ人生であると諭したくなる気はもはや起きないだろうと思う。
誤解を恐れずに言えば、人間の生き方を人一倍真面目に、強い倫理観をもってして意識的に考える人間だからこそ行き着いてしまった宿命的な悲劇に思える。とりわけ相手を思い遣る富栄さんの一途な心づくしと、娘を自分の学校の跡継ぎにするべく最大の情愛を注いだ父・晴弘さんの晩年期の境遇は、本作品中で最も感涙を誘わずにおかないところでした。
さらなる不幸と言えば、作家・太宰治の威光を保ち続けたい勢力による富栄への根拠のない中傷、すなわち心中の動機や実行を素性卑しき女性(事実無根)の意思によるものとし、太宰をそれに引き摺り込まれた被害者に仕立てた評言が、長く世間に信じられ続けたことです(両人の直筆の遺書が残っているにも関わらず)。世人はいつでも権威に弱い。文化人の発言は遺族の見解以上に社会的影響力を持つのが恐ろしいところで、私は晴弘さんたちの肩身を狭くした井伏鱒二、亀井勝一郎らの心ない虚言には心底怒りを覚える。太宰本人とて、愛する富栄さんがここまで日本人から悪女扱いされ冷眼を向けられることになるとは想像しなかったでしょう。松本侑子さんの労作である本書は、先ず実在の男女に文学の主人公としての生々しい存在感を与えることに成功していますが、同時に、山崎家が被ったあらぬ汚辱を拭い去るという、著者自身の大きな念願を果たしたと言えます。

私個人は元々、芸術家の作品を深く知るためにその私生活を覗くという事にほとんど興味が湧かない。小説も音楽も、演奏家の演奏も、それが芸として真に優れたものならば、表現されたパレットにこそ肝心なことのすべてが現れていると考える方です。作家の情死という衝撃的な事実も、その意味では、太宰文学の魅力や個性を保証したり彩りを添えたり、反対に卑俗なものに貶めたりする力は持たない。『恋の蛍』に胸打たれたのは、文字どおり松本さんの筆に人物たちへの哀惜の情が切実に滲んでいたからで、殊に富栄・晴弘の生涯を信念をもって取材し、後世向けの資料に価する作品とした熱意には全く頭が下がる。山崎富栄という不思議な道筋を辿った女性について、私は本書を読んで初めて、血の通った一個の人間としてのイメージを形作ることができたように思います。
もちろん、15年前にこの本を手に取ることになったきっかけは、人の外皮をえぐるような嫌な奴だと思いながらも、抗えない磁力を持った太宰治の文体にあったことは確かです。しかし本作もまた、激動の時代に翻弄された作家と純情な若い女性の物語として、独自の文学的魅力を放つ小説ではないだろうかと思います。