エルマンやティボーのレコードを聴く時には、名人の技を楽しむより以前に、ヴァイオリンの本当の音色、その芯の領域に触れるという喜びが伴います。戦前戦後の日本人は国際情勢や個人の生活水準が関係して、外来アーティストの実演を聴く機会を多くは持てなかったのですが、それが音盤だけの鑑賞であれ、ヴァイオリン音楽の真髄を知るに十分な高水準の演奏には贅沢なほど恵まれていました。クライスラー、ティボー、エルマン、ハイフェッツ、シゲティ・・こんな徳の高い大家達がいまだ現役で芸を競い合っていた時代に生きた音楽ファンを、私は心底うらやましく思う時があります。
その当時、鑑賞は創造の瞬間にまみえる感激に満ちた一時だっただろうし、音楽ファン達は新しいヴァイオリンのレコードを買うのが楽しみで仕方がなかったでしょう。今はもう冗談でなく、芸境の深さや音色の滋味よりも目に見える技が注視される時代だと言っていい。審査員のように目を細めながら、音程はリズムは正確か、そんな本質外の事ばかりに気を取られて音の現象を追う聴き手も少なくない。一流の芸に対して知的想像力などまるで働いていないような、粗探し的な評言もよく目にします。
弾く方も聴く側も、時の趨勢から離れて裸の心で音楽と向き合うことが肝要だと思いますが、幸いレコード録音には芸術性の高い、流行の力などで古びることのない演奏の古典が多く残っています。私自身は音を売らなくてはいけない立場上、後代の範となりうる演奏で自分の感性を磨き続けたいし、ブログを書くならその種の録音をできるだけ世間一般に紹介したいと考えています。

ミッシャ・エルマンは小品専門のヴァイオリニストと思われている節がありますが、それはSP盤の収録時間の都合で小品の点数が多くなったというだけで、ヴィエニアフスキ、チャイコフスキーの協奏曲といった大曲にもなかなか気魄のこもった名演を残しています。当CDに収められたモーツァルトのK.454は、K.526と共に私の好きなヴァイオリン・ソナタで、基調は明るくとも拭い切れない憂愁の影が垂れ込めた大変味の深い曲です。エルマンとしてはやや珍しいレパートリーですが、独特の節回しを駆使しながらモーツァルトの魂の揺らめきを大らかに品良く表現しています。
洗練の度合い、ひらめき、モーツァルトに必須の都会的センスという点ではティボー、クライスラーの名演に半歩譲るかも知れませんが、エルマン固有の憎めない愛らしさというべきものがこの録音の一つの強みになっているでしょう。全盛期の最後にあたる1950年。彼の重心の低い音はいまだ健在であり、決して粗忽にならず、聴く者を温かく包み込むような語り口には、円熟した巨匠ならではの玄人芸を見る思いがします。