長期休業のあとリニューアル・オープンしたタワーレコード仙台店。その充実ぶりを確かめに足を運んでみたところ、クラシックCDのコーナーが何と以前の3分の1くらいに縮小されていました。

通路をはさんで、短い商品棚がたった二列(二面)並んでいるだけ。タワーレコードの売り場とは思えません。

「こんなに数を減らしたら、もうクラシックのお客は来なくなりますよ」と、つい権限もなさそうな店員さん相手に苦情を訴えてしまいましたが、ともかく、今後も在庫数を増やす予定は無いとのこと。

クラシック音楽は作曲家の年代も演奏家の年代も幅広いジャンルであり、これを広く浅く押さえるだけでかなりの枚数が必要になります。今の在庫数ではとても熱心なファンの好奇心を刺激することはできないでしょう。

十年ほど前には新星堂、HMVという大型CDショップが仙台市のアーケード街から撤退しましたが、最後の砦だったタワーレコードまでがクラシック専門コーナーを事実上消滅させたとなると、音盤選びのために街へ繰り出す楽しみはほぼ無くなることになります(何とか凌ぎを削っている中古ショップが数軒ありますが、やはり新品の販売店とは少々行く目的が異なります)。かつての大手ショップでは、ガラスで仕切った静かな部屋にクラシック売り場があったり、ジャンルごとに階が分かれていたりしたものですが、もはや大都市にあっても、そんな文化的な光景は遠いセピア色の過去の話になりつつあるのかも知れません。


盤を買う人が激減したのと、購入するにも通販で注文する人が増えたという現状をもちろん知らない訳ではありませんが、果たして我々はダウンロード音源やYouTubeの鑑賞で、音盤を聴く時と同じ集中力を保つことができるのか。十年後あるいは三十年後、その演奏が昔の生活の思い出とともに甦るほどに、音像を脳裡に擦り込めるのか。クラシック音楽は一時の慰め、暇つぶし、あるいは流行を追うなどの目的で聴くものではありません。もしも聴き手が半永久的に一つの音盤を生活の伴侶にできるとしたら、それはレコードの存在意義から言って最も理想的な関係だと言えるでしょう。

人間の全感覚をはたらかせて真剣に音楽に向き合う、これはもちろん大切だと思います。しかし音を記憶の底に刻印するには、感動した一つの盤を何度も繰り返し聴く必要が出てきます。そうして初めて、レコード音楽は自分の生活の内側にまで溶け込んで来るだろうし、個々の人生観に感化をおよぼす芸術にもなり得ます。私自身、YouTube音源などを参考資料的に聴くことはありますが、その体験を10年後に懐かしく振り返ることはまず無いでしょう。

音楽は空気のようなものだから、CDを越える高密度の音が聴けるならデータを保存しておけばそれでよい、と考える人も多い。しかし私のような人間は、芸術的価値の高い音楽には、何か視覚に訴える証、手で感じ取れる重みを添えたくなる。音楽への執着と盤への愛着は、どうしても切り離しては考えられない。だから「盤」の無いところに、「愛聴」というものも存在しない。

大手のCDショップが先々でどういう販売形態を取ろうと、一種儀式的な、あらたまった雰囲気の下で音楽を鑑賞するために、私は昔ながらのレコードとCDの愛好者たることを決して止めないだろうと思います。