形よりも心。普通は「心よりも形である」と、逆のことを敢えて声高に訴える人はいない。しかし現実には、そう主張しているのと変わらないような情味の薄い乾いた芸術表現に出会うことが多くあります。外面、外皮の部分に執拗にこだわる鑑賞者も多くなりました。美術も、書も、ヴァイオリンの演奏も。現代流行の写実絵画の不毛な世界などその筆頭に挙げられるかと私には思えます。
上の相馬御風の一文は芸術論ではなく、古い文人の精神を人間生活一般にどう生かすかについて説いているのでしょうが、古典というものに準拠しその様式を離れての自己表現が許容されにくい芸術に関しても、氏の箴言は汎用性を持っていると思います。心が形に負けたり、主観と客観が転倒したりする光景を見るのは、滋味ある藝を愛する者として至極退屈なものです。作品や演奏が如何に完璧に整頓され美しい体裁を取っていようと、それは常識人としての正確な物の見方、もしくは職人的な勤勉性を示しているにすぎない。人間としての眼の成熟とは無関係です。
「心眼」という言葉がありますが、芸術を享受鑑賞する側も、絶えず心の眼を見開いて物を見聞きしていると、表面の技巧や美よりも遥かに人間的な、奥行きのある心象風景が眼前に開けてきます。それには先ず何をおいても、直感的な感動、我を忘れ魂を根こそぎ奪われるほどの純粋な感激が根本になくてはならないでしょう。人間、好きでないものに対しては十分な想像力が働かない。心が大事と頭では理解し得ても、形から入っていこうとする人は、やはり形にとらわれた浅い体験に終始するような気がします。
拙宅に島崎藤村の手による細長い一行書の軸があって、時々壁に掛け何をするともなくじっと眺めていることがあります。そこには芸術の本質とも、生きる上の指針とも取れる、短くも意味深い言葉が書かれています。
「古人があとを求めず古人がもとめたるところを求めよと南山大師がふでのあとにも見えたり
藤村」
私は南山大師・空海のこの言葉を直接に読んだことはありませんが、藤村が几帳面な筆で一行にしたためた文言は、御風の言う芭蕉や良寛を慕わしく思う心と一脈相通ずるものがあるように思われます。