前にもどこかで書いたかも知れませんが、日本のクラシック音楽好きの中には、作者と曲名をそれぞれ略し一語で呼びたがる人があります。曰く「ベト7」「ブラ2」「メンコン」「オケコン」「モツレク」・・等々。また、単に名の長い作曲家、演奏家についても「ショスタコ」「プロコ」「フルヴェン」「クナ」・・。

音楽本を読んだり、人と音楽について話している時に、この類いの呼称に出くわすと、私などは何とも言いようのない嫌悪を感じてしまう。はるか昭和の時分からこうした無神経な言葉づかいをする人は一部にありましたが、近年はクラシック音楽の大衆化に伴って楽器の愛好者も増え、曲の略称を見聞きする機会も増えたように感じています。

私は職業柄、オーケストラの首席奏者やソリスト級の人とも音楽の話をさせて頂くことがあるのですが、意外にもプロフェッショナルな人の口から「メンコン」や「チャイコン」という呼称を聞くことはありません。きちんと「メンデルスゾーンのコンチェルト」とおっしゃる。対して、略称を好んで使うのは、ちょっと気位の高いアマチュア奏者、生半可な鑑賞家、音楽を生活の手段程度に考えている楽器講師、そして楽器商人、などです(笑)。


曲名を略すということには、様々な心理が働いているのでしょうが、少なくとも、家族や友人を略して呼ぶ時のような親愛の情から来る習慣ではないと私は思う。多くは、何か「通」を装わなければならない気持ち、自分はこの作品を世間一般より知悉しているのだという虚栄の現れだと見る方が正しいでしょう。かりそめにも芸術の力を信じ、音楽を愛してやまない者ならば、ベートーヴェンやブラームスが渾身の力で書いた聖典を軽々しく略称で呼ぶ事はできません。これは音楽的知識の浅薄、頭の良し悪しとは、直接関係のない話です。


文章表現を職業とする評論家、文学者、作家は、もともと言葉選びが人一倍慎重です。昔は殊にそうで、大御所クラスの音楽評論家、例えば山根銀二、野村光一、志鳥栄八郎、黒田恭一各氏の著作には、「フルヴェンのベト7」などという表現は絶対に出てこない。黒田さんは特に文体が丁寧だった人で、普通なら「ベルリン・フィル」「BPO」とするところを必ず「ベルリン・フィルハーモニー」と書いた。略せばどうなるという事ではなく、ただ言語に対する繊細な感覚と美意識がそう書かせるのだろうと思います。


⏬黒田恭一・著『カラヤン・カタログ303』(昭和51年)より


そもそも、一般に育ちが良い人というのは、性別、生活水準によらず、言葉遣いと発声が丁寧です。接客業をしていると日々様々なお客様に出会いますが、そういう人は一音ごとの声の押し出しがはっきりしていて、各様に綺麗な余韻を持っています(美声というのとはまた違う)。

彼らは、音楽の話に限らず、みだりに略語というのを使いません。意識せずとも一つ一つの言葉を大事にする。そして場の空気を読み、言葉を選んで話されるので、聴いていると此方の気分までが落ち着いて温和になってくるものです。

言語習慣が人間にもたらす影響は自他共に非常に大きい。略称を使う人は、みずからの発する言葉で名曲の価値を貶めているという事に気づくべきでしょう。音楽と真面目に向き合いたいなら、心底から名曲に感動したいならば、先ずは外国並みに「ベートーヴェンの第五交響曲」「モーツァルトのレクイエム」と呼び直してみては如何かと思います。