ベートーヴェンのカルテットは、全集単位ならハンガリー弦楽四重奏団(旧盤・1953)、ブダペスト弦楽四重奏団を特に愛聴しています。それぞれに録音がよく、高度に洗練された芸を見せてくれる素晴らしい全集ですが、さすがに後期作品になると、私はブッシュSQの求道的で祈りにも似た境地の音を忘れることができない。12番は中でも手堅い立派な演奏と思います。第2楽章の長い深沈とした響きに耳を傾けていると、ベートーヴェンやその作品が人類にとって特別に意義深い存在であるのと全く同じ意味で、この奏団の精神の土壌が清く尊いものに感じられる。両者の品性に高低がない。

残念な事ながら、ベートーヴェンやバッハは、音楽家や愛好家が頭の中で思っているほどには、最早偉大な存在ではなくなっているのではないか、と考えることがよくあります。ブッシュの弾く四重奏、フルトヴェングラーの指揮するシンフォニー、メニューインやシゲティの弾くヴァイオリン・ソナタを聴くにつけ、能力如何でなく、そもそもこのような深い敬意と愛着を以てベートーヴェンに向き合い、自己を作家に同化させる人が居なくなったと感じる。目に見えない人間の血脈、思想を其処に感じ、音として表現するのが下手になっている。こちらに特別な愛惜が無ければ、古典作家と言えども分析の対象、征服の対象としての価値があるのみとなる。これでは一体何のためにテクニックを鍛えているのかが分からない。
私は例えば、現代流行の美術作品に見る写実性と、昨今の古典演奏の世界に漂う妙な冷静さは、根を同じくする病のような気がして仕方がない。精神の枯渇、人間への不信感を、写実や客観という尤もらしい言葉で誤魔化しているだけではないのかと。音の芯が炎々と燃えて彫りの深いベートーヴェンの相貌を映し出すようなブッシュのカルテットを聴くと、もっと人間一人一人にしかできない真っ正直な音楽創造の道があるはずだ、ヴァイオリンにしか歌うことのできない歌があるはずだ、又、それが芸術表現の本道からして一体何のマイナスになるのだという激しい思いにとらわれます。
表現上の均衡を指して「知情意」などとよく言いますが、知が目立つ人間は嫌らしい。頭による把握も大事だけれども、知よりも情がやや勝っているくらいの方が、音楽としても人間としても上等ではないだろうかと私は思います。