巷で名曲と呼ばれて久しいバレエ音楽『白鳥の湖』は、一般には短い組曲版や抜粋版で聴かれているのが実情で、全曲単位で親しんでいる人は今もって少数派では無いだろうかと思われます。
この作品は、ちょうどモーツァルトの『フィガロの結婚』のように歌心溢れる旋律が間断なく立ち現れる作品で、いずれ甲乙の付けがたい珠玉の小曲が全編に散りばめられています。したがって省略を加えれば加えるほど、作品に高貴な輝きを与えている部位が一つずつ削ぎ落とされる事になる。特に組曲版は、有名な白鳥のテーマを両端に置き、間に幾つかの舞曲を並べただけという味気ない構成を取る。これでは曲をかじった事にもならず、ほとんど別作品のような感傷ムードが出来上がってしまいます(曲順も前後する)。チャイコフスキーの全才能を傾注したこの至高のバレエ音楽は、やはり全曲版かそれに準ずる構成の盤で聴いて初めて、真正な価値を我々の前に明らかにするでしょう。

もう8年ほど昔、LPに手を出し始めた頃に、デッカ録音のアンセルメ指揮の全曲盤(1959年)を聴いて大変な感動を覚えました。録音音質も良く、その時は半ば衝動的にブログ記事に紹介し、初期プレス盤との比較に精を出したりもしました。
現在でももちろん悪い演奏とは思わない。しかし正直なところ、1972-3年のフィストラーリの全曲盤に出会ってからは、アンセルメ盤の感動が多分に録音の目覚ましさに負うものだった事に気づかずに居れなかった。私にとっては初の全曲盤体験であり、LPの再生音に人生の大いなる楽しみを発見した矢先だった事も関係していたでしょう。バレエの神様と讃えられるアンセルメには確かに手慣れた仕事という雰囲気はあるけれど、優雅な身振り、香り、躍動感、機知、一曲一曲を貫く緊張の糸、アンサンブルの統一感・・これらの点すべてにおいて、フィストラーリ/オランダ放送交響楽団が抜きん出ている。おそらくアンセルメ/スイス・ロマンドの熱心な聴き手も、演奏の醸し出す精気に歴然とした差を感じてしまうでしょう。フィストラーリの牽引ぶりはどこまでも草原の風のように気持ちがよい。知らず知らずのうちに高貴流麗な音色と鮮やかなリズムの舞いの渦中に引き込まれる。一体、どうすれば大所帯のオーケストラをこのように一個の人間の上品なセンスの下に束ねることができるのか。全く舌を巻くばかりの天才的手腕です。
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上にはまた上の藝が存在する事を知るというのは、決して発見の喜びだけに満ちた単純な心境とは言えない。フィストラーリの全曲盤を知ってから、私は、かつてデッカが決定盤と謳ったアンセルメ盤をほとんど聴かなくなっている。相変わらず音の素晴らしさには心踊るとしても。たとえ一時的にもせよ、大なる信頼を寄せた音楽が褪せて見えるようになった時は、ある種別れの哀しみに似た感傷を伴う。こちらの感性が深化したのか、退化した結果なのか、客観的な見極めは付かないですが、ともかく好きな盤がいつしか心の琴線に触れなくなってしまうというのは時々経験する事です。
どちらかと言うと私は、一度心底から感銘を受けた芸術に飽きるということは少ない。殊に音楽の分野では、今の自分の心境に即して音盤から別の魅力を見つけ出すよう努めるところもある。エネスコ、メニューインのヴァイオリン、カラヤンの指揮、ケンプのピアノ・・。彼らの芸術はそこから音楽的生命をいかに欲深く汲み上げようとも、なお泉の底を覗かせない。そうして早や25年ないし40年近くもこちらの鑑賞眼に耐えている。私はこれらの音盤に芸術としての器の大きさと深さを見出だしているつもりですが、他人は全く別のアーティストに似たような器量を発見するでしょう。少なくとも、主観的想像の方向が自分と完全に一致する人などは世の中に存在しません。
音楽は空気のごとく向こうからやって来るものだから、感動する時には特段苦労を要しない。それだけに飽きやすくも忘れやすくもある。そして音盤に限っては、個々人の極めて我がままな反復鑑賞に耐え抜くという厳しい試練が課せられる。だから一人の心の内にいつしか残らなくなる演奏が出てくるのは、本来自然な事でしょう。
私などがプロ中のプロの演奏を批評したり取捨選択するのはおこがましい事とは思う。しかし実際問題として、少々無理にでもこの選択をしないと、音楽ファンの自室は生涯を費やしても一巡できない量の音盤で溢れ返ることになる。もし世間的に名盤の誉れ高いレコードが持ち腐れになるくらいなら、多少の偏りが出ようと、年齢とともに的を狭く絞って鑑賞してゆく方が罪はないと言えます。
又、そうするからこそ各人のライブラリーに本当の個性的な色味が生まれる。ある場合には、世人が何と貶そうとも、自分だけはこのアーティストの偉大さを終生理解していくつもりだという、人知れぬ自負や使命感も出てきます。