〇『シルバー・ジュビリー・コンサート・ライヴ1953』

ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)
録音:1953年2月25日 ニューヨーク、カーネギー・ホール
ホロヴィッツは、ケンプ、コルトーと並んで最もよく聴いてきたピアニストです。人物の組み合わせが少し変じゃないかと言われそうですが、三者はそれぞれにファンタジーが豊かで、この近代的な楽器を聴く醍醐味を私に教えてくれた人達です。ケンプ、コルトーはホロヴィッツのようにテクニシャンと呼ばれることはないでしょうが、彼らの詩的な情感とか人間味に通ずる何かを、鍵盤の魔術師的なホロヴィッツの内にも感じるのだと言えば、ある程度まで理解してもらえるでしょうか。


演奏の詩情とか、霊感というのは眼に訴える絵ではないから、聴いている各人の心に、別の姿かたちを取って現れます。鑑賞は作者の代弁者としての個人と、自分という個人の間で成り立つ、私的な時空間での出来事です。しかし批評の分野では、口を極めて自分の体験を訴えるだけでは説得力を持たない。そんなのはお前の主観じゃないかと言われる。あえて万人向けに公平性を期した文章を書くとなると、まず証拠の明らかな部分が指摘の対象となるでしょう。テンポが早い遅い、リズムの巧拙、音を当てるはずす、など。批評家の仕事が知識人的な退屈なものになりがちなのは、こういう制約の中で私の意見を述べないといけない事情が根本にあるからだろうと思います。だから、主観をむしろ見せ所としている文学者の音楽エッセイの方が、読み物としては断然生き生きとして面白くなります(一定の地位を築いた批評家ならば、これに近いスタンスで物を書くことが許されますが)。


レコード会社がホロヴィッツの録音を紹介する時は、第一にその目も眩むばかりの鍵盤のメカニズムに注目することになるでしょう。誰の眼にも明らかな彼のピアノの特長です。けれども十分に聴き込んでいるファンから見れば、さまざまな奥行きを持つこのピアノ芸術について、もっと他に言い様はないのかという気持ちになります。ホロヴィッツに世紀を越えた不滅の輝きを与えているものは、磐石の技術の上に漂う情緒的な色あいであり、自在なフレージングによって底から掘り起こされる楽曲の生命です。彼のショパンやスクリャービンを聴くと、曲というものが如何に演奏の主観に負っているか、言い換えれば、作品は優れた奏者抜きでは如何に未完成な存在であるかを痛感させられます。


このCDには、ホロヴィッツが長い引退期間に入るにあたり、カーネギー・ホールの聴衆の前で披露した名演奏の数々が収められています。シューベルト、ショパン、スクリャービン、リスト、ドビュッシー、プロコフィエフ。どれも巨匠が完全に手中におさめた楽曲ばかりで、それぞれに美しく、起伏が激しく、大曲はひとりの人間が描ける限界のスケールで奏でられる。一枚のCDとして最高密度の内容と言える、歴史的なコンサート記録です。


プログラムの一曲⬇️

ホロヴィッツ/スクリャービン 練習曲嬰ハ短調 作品42-5