2012年に書き始めたブログを順に辿ってみると、音盤の紹介ではSP、LP時代の音源ばかりを繰り返し取り上げてきたことに気付きます。音楽以外の分野でも、古いものには割合何でも興をそそられる方ですが、取り立てて新しいもの嫌いという訳ではない。私なりに幾つか思うところがあって、クラシック音楽に関しては昔の音盤を中心に聴くようにしています。
先ず往年の録音では、大まかな言い方ですが、生命力を感じさせる演奏に比較的多く出会う。その昔は売上が見込める第一級のアーティストだけがレコード吹き込みを任されたため、元々芸術としての平均値が高く、個人の好き嫌いを抜きに言うと当たり外れが少ない。1930年代から70年代あたりまでに吹き込まれた器楽、管弦楽のレコードは、今でも古典としての価値を減じないほど優れた内容を持っています。人として必要な力をもらい、心が広く豊かになる音楽と言えばよいでしょうか。実際、そのような人格上での感化がなくては、長時間を割いてシンフォニーやオペラを聴く意味はありません。

そして、古い音源にこだわるもう一つの理由は、長年耳に親しんできた弦楽器の絃の質への信頼があるからだと思います。カラヤンやベームが存命の頃までは、ヨーロッパの一流楽団のヴァイオリン、ヴィオラは多重的なガット絃の響きを持ち味としていました。ところが21世紀に入ると、ほぼ全てのモダン・オーケストラでナイロン絃を使用する人の割合が高くなる。あの絹のような感触の音が魅力だったウィーン・フィルまでが、ナイロン素材の絃を堂々と使うようになりました。それをニューイヤーのテレビ中継で初めて見た時はびっくりして、「お前もか!」と叫びたくなった(笑)。もしその中にガットを張る団員が幾人か残っていたとしても、化学繊維の乾いた音は、あえかなガットの響きをほぼ掻き消してしまうでしょう。
いやしくもひとかどの名器を使って古典音楽を聴かせる芸術家が、ガットを張らないというのは昔では考えられない事だった。理由ははっきりしていて、ナイロンやスチールの絃と較べ、木の質感の表出力と迫力に雲泥の差があるからです。天然素材の絃によって初めて、個々のヴァイオリンの性格が明らかになると言ってもいい。
こうした絃の長所は演奏倫理上、当然生かされるべき事のように思われるでしょうが、楽器主体のまっとうな物の考え方は、しだいに奏者主体の考え方、つまりテクニックの安定を優先する発想に取って変わってしまった。結果、気候や環境の変化による伸縮が少ない化学繊維の絃が好まれるようになりました。近頃のコンサートに行った人ならお気付きかと思いますが、楽章間で楽員が長々と調絃する光景はほとんど見られなくなっています。これにはガットのヴァイオリン奏者はなかなか苦労させられるそうです。

しかし、楽器という天然素材でできた有機体に異物を組み合わせても、残念ながら木の箱の方は都合よく化学物質とは折り合ってくれません。薬では人間の身体が健康にならないのと似ている。会場の客席で体験すると分かりますが、ナイロン素材は奏者自身が思っているほどには、ヴァイオリンの地の音色を引き出せないものです。むしろ絃の持つ軽くて空々しい音の方が強調されてしまいます。
(ただし一番高い音を出すEの線だけは別で、昔も今も金属のスチール絃を使います)
不思議に思うのは、批評家や愛好家の間でこの使用絃について言及する人がまったく居ないことです。フルトヴェングラー、カラヤンの素晴らしさが分かる人は今だって大勢いるのに、同じ耳で昨今のオーケストラを聴いて絃の違いが気にならないのだろうかと。

以前は、新しい時代が求めている弦楽器の音をもっと積極的に許容して行かなくてはならないとも考えましたが、やはり私は、純粋で混じり気のない木の響きを欲する。名前こそは「弦楽器」でも、主役は楽器、絃は表立ってはならない道具です。正論を述べるようですが、ナイロン絃は、分数楽器を弾く子供や初級クラスまでの人が使うようにした方がいい、というのが正直な気持ちです。