レイモンド・チャンドラー(1888-1959・米)は、ハードボイルド(感傷や恐怖に流されないタフな人間)なタッチの探偵小説を書いて最も成功した作家の一人でしょう。
私立探偵マーロウは、チャンドラーが創出した知的でクールで正義感の強いキャラクター。私は先に映画版の『三つ数えろ』(小説名は『大いなる眠り』)を見ているため、どうしてもウニャウニャした早口の英語で喋るハンフリー・ボガートの姿が眼にちらつきますが、好きな俳優なのでそれはそれで構わない(笑)。


ニヒルな台詞が多くて真似る気にはならないけれど、感性の鋭さがあり、端々に生活の実感も滲む。文章表現として喩え方が巧妙で面白いです。多分に訳者村上さんの才覚も手伝ってのことでしょう。

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「私は煙草を吸った。フィルター付きの煙草だ。ぼやけた霧を生綿でこしたような味がする。」


「それが犯罪とビジネスとの違いなんだ。ビジネスには資本が不可決だ。両者の違いといえば、まあそれくらいのものだろう。」


「法律は正義じゃない。それはきわめて不完全なシステムなんだ。もし君がいくつかの正しいボタンを押し、加えて運が良ければ、正義が正しい答えとしてあるいは飛び出してくるかもしれん」


「ハリウッドでは次から次に目を見はらされることが起こる。いちいち驚いていたら身がもたない。」


「私はキッチンに行ってコーヒーを作った。大量のコーヒーを。深く強く、火傷しそうなほど熱くて苦く、情けを知らず、心のねじくれたコーヒーを。それはくたびれた男の血液となる。」


「私は気にはしなかった。彼女が私をどのように罵ろうが、誰が私をどのように罵ろうが、知ったことではない。しかしこの部屋は私がこれからも住んでいかねばならない場所なのだ。私にとって我が家と呼べるものは他にはない。ここにあるものはすべて私のものだ。私と何かしらの関わりを持ち、家族の代わりをつとめるものたちだ。たいしたものはない。何冊かの本、写真、ラジオ、チェスの駒、古い手紙、その程度のものだ。とくに価値はない。でもそこには私の思い出のすべてがしみ込んでいる。」

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煙草には煙の色と苦味が感じられ、コーヒーを作るところは白い湯気と濃厚な香り、部屋の空気までが眼に見えるよう。人物の感覚と感性を通して、事物が常に生き生きと、時にまざまざと描出される。その感覚は繊細だけれども心はどこまでも打たれ強い人間です。最後の台詞など、厳しく殺伐としたアメリカの社会を一匹狼で生き通す男の哀愁が感じられて良いですね。未読のマーロウ作品も読みたくなってしまう名言集です。