先日の寒い晩、夢にあの中村天風さんが出てきた。暗闇の中からおぼろな人影が浮かんできて、ほどなくして自室に和服を着た天風師がはっきりと姿を現し、
「馬鹿者!貴様はそれでも人間か!」
と一喝して消え去った。
消え去ったというよりも、岩間に轟くような大声だったので直ちに目が覚めてしまったというのが正しい(笑)。深夜だったから又直ぐに寝ましたが。
実は夢を見た理由ははっきりしていて、ちょうど名著の誉れ高い本『盛大な人生』を読了したばかりで感無量の境地にあったことが一つ。
もう一つは、その夜、就寝前に昭和35年の「終戦玉音放送録音盤秘話」という講演記録をオンラインで読んだことです。
私は、天風さんが口先だけの幸福論者、精神論者でないことは重々承知していますが、この記事により、氏が国運を左右する歴史的局面において一身を賭した果敢な行動に出たことを初めて知りました。
御前会議で日本の降伏が決まった後の昭和20年8月14日、なおも徹底抗戦を唱える近衛師団の軍人が大挙して宮城(キュウジョウ)に押し掛けた。参謀の某少佐が軍刀を抜いて玉音放送の録音盤を探していると言った時、天風は落ち着いた口調で先ず軍刀をしまえと諭す。暫しのやり取りがあった後、突如として先の夢の中のような台詞を大声で吐き、直ちに相手を我に返らせた。少佐は俄然羊のごとく大人しくなってその場を去り、外で待機する集団のもとへ帰って行った・・(少佐は直後に切腹)。
我々は文面からその緊迫した状況を想像するのみですが、当時の社会情勢を詳細に記憶している天風さん自身の話と、大井満氏の書き起こした再現の文章に胸が熱くなりました。トラの檻に入っても相手が暴れなかったとか、気功で相手を倒すとか、幾多の伝説、武勇伝を持つ天風師ではありますが、さすがにこの時の武装集団と対決するのは怖ろしかったと述懐しています。
氏は元々、太平洋戦争には反対の姿勢を取っていた。戦中の講演においても、やがて来る平和な時代の心構えを説いたり、出征者には生きて帰れと檄を飛ばすなどしたものだから、危険人物として憲兵の監視対象となる。数々の妨害を受け、東京の自宅は戦争末期に「強制集団疎開」という異例の名目で取り壊しに遭っています。だが共産党の思想犯などのように身柄までを拘束されなかったのは、昭和天皇や皇族の啓発指導を担当していたからだと本人は言います。
又、終戦間際になぜ天風さんが皇居内に居たのかと不思議に思う人があるでしょうが、氏はこの時期、身の安全を考えた関係者の取り計らいで皇居内に仮住まいしていました。そして8月14日、正しい事は信念を持ってやるべきという、平素人々に説いている通りの事を、天風さんは国のため身を捨てる覚悟で実践したのだと思います。
https://www.tempu-online.com/part3/recorder-tips.html
大井満「心機を転ず」より⬇️
「何だ、貴様らは」、羽織袴姿の天風に寸分の隙もない。
「ここは私室だ、みればわかるだろう。黙って踏みこむとはいったいどういうことだ」と、若い彼らに優しく声をかけた。
「はっ、失礼いたしました。実は探し物をしているものですから」
「そうか、何をさがそうというのか知らんが、人の部屋へ入って来たら、自分の官、姓名くらいは名乗れ。私は中村天風だ」
「はっ、自分は近衛師団参謀、石原少佐であります。自分は、陛下のお声を録音した、玉音盤をさがしております」
「そうか、詳しいことはわからないが、とにかく段平をしまえ。敵が上陸してきたわけでもあるまい。日本刀というものは、武士の魂であり、また敵から身を護るためのものだ。やたらに抜くものでない。早く、しまえ」
「はっ・・・」、軍刀を鞘に収めた石原少佐は、蹶起の趣旨を述べ、
「降状など、断じてできません」と、涙ながらに訴える。
天風は諭すように「軍人としての、その気持ちはよくわかる。しかし、陛下のお言葉とあれば、まさに綸言汗の如しで変更はない。となれば、その生命をお守りするのが軍人の責務だろう」。
石原少佐は猛然とこれに反発し「いえ、違います。それは君側が陛下に無理強いしたことであって、陛下御自身のお考えではありません」。
この時であった。天風の口から雷のごとき叱声が発せられた。
「馬鹿者!」「貴様は、それでも軍人か!」。天風の顔は、一瞬、阿修羅のごとき、凄まじい形相になっていた。
「いいか、陛下は大臣や幕僚の言に左右されるような、そんな御貫禄の薄いおかたではない。こんな重大なことを陛下以外に誰が決められるというのだ」
「・・・・・」、石原少佐にとって、それは思いもかけぬ一言であった。それに縛られ、しばらく塑像のように動けぬ少佐であったが、やがて、その眼からは、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちていった。
ああ、これで万事休すだとの思いが、一気にこみあげてきたのであろう。さすがの石原少佐も、まさに臣下として逆らいようのない、きつい一言であった。