新潟県内は面積が広く長い割に、電車・バスの本数が極端に少ない。限られた日数のうちに複数のエリアを巡ろうとすると、先々の時間行程まで頭に入れながら要領よく動かなくてはならない。JRの越後線などその最たるもので、朝の電車に乗り遅れるともうその日の予定は半分以上潰れてしまいます。基本的に車社会の地域だから、意外に地元の人を頼って訊いてみても公共交通機関の乗り換え等には詳しくない場合が多いです。

今回はまず糸魚川に出て、そこから知った人の車で北東の出雲崎まで来て一泊。
翌朝、バスで越後線出雲崎駅に出て、電車で燕市の分水駅へ。4箇所の良寛の史跡めぐりをしたのち、史料館を訪問。
昼過ぎに越後交通の長岡駅行きの路線バスに乗り14時台に長岡駅着。早めに着いたおかげで長岡市街でも二つの記念館を訪れることができました。
出雲崎、分水、長岡市街という三つのエリアで、史跡めぐりをこなしながら、訪ねた記念館・史料館が4箇所。二日間としてはまあまあよく廻れた方だと思います。
⬆️
各記念館で頂いたパンフレット
左から、
良寛記念館(出雲崎町)
燕市分水良寛史料館
山本五十六記念館(長岡市)
河井継之助記念館(長岡市)

最初の三つは4年ぶり、二、三度目の訪問。継之助記念館は初めて。
山本五十六記念館⬇️
河井継之助記念館⬇️
記念館というのは、異なる時空に生きた古人との精神的距離が一気に縮まる場所です。人間の内面を彷彿させる展示物を目の当たりにすると何か一冊求めたくなるのが人情で、五十六記念館ではこちらを頂いて来ました。⬇️
下は山本元帥生誕之地・山本記念公園にある、復元された五十六生家。四年前と変わらず大切に保存されていました。本物はあの熾烈を極めた長岡空襲で焼け落ちましたが、あまり立派な造りではない古い家屋の雰囲気を上手く再現しており、一見これが当時の建物かと見間違うほどです。⬇️
この三氏の関連性と言えば、良寛と河井継之助はどちらも山本五十六が越後人のなかで篤く尊敬していた人物だということ(五十六も書と和歌を嗜む人であったから、良寛への敬慕は大変なものだったようで、良寛研究家の相馬御風とも手紙のやり取りをしています)。もう一つは、江戸時代に生きた良寛と河井継之助の父は親交があったことです。
又、彼らは自分の大切な部分は断じて曲げない堅い精神の持ち主であり、精神が強いゆえに、共に他人への、殊に弱者や死にゆく者への情が深い人物でした。みずからを厳しく律し、と言って堅物とは程遠く、遊び心を忘れなかったところにも何処か相通ずる人間性が感じられます。

『山本五十六のことば』より
〇人生の窮極は真たるべく、之に達するは誠のみ。

〇人間は自己の力で凡てをやらねばならぬ、人にたよってはならぬ。

〇現在、世界を見わたして、飛行機と軍艦では、日米が先頭に立っていると思うが、しかし、工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力をあわせ考え、また、かの石油のことだけとってみても、日本は絶対に米国と戦うべきでない。