
〇大其ら遠志都可尓しろ起雲は由く志津可尓わ礼毛生くべく安り計里
御風
大ぞらを静かに白き雲はゆくしづかにわれも生くべくありけり
(⬆️「御風歌集」での読み下し。書にしたためる場合は視覚的なバランスが重要になるため、漢字と平仮名の使い分けが時々で異なります。)
言葉どおりに解すれば取り立てて注釈は要らない歌かと思いますが、御風の若い頃からの文学活動の歩みを知る者としては、平明な語句の内に秘められているであろう氏の様々な思いを想像してしまう。のどかな田舎の美しい空の動きとともに、静かながらも決然とした意思表示を感じ取ることが肝要に思われてきます。
東京で評論活動や雑誌の編集をしながら時代の寵児のように脚光を浴びていた御風が、大正5年33歳の時、すべての名声を打ち捨て、さびしい糸魚川の町に退住したことは文壇史における一つの事件でもありました。その後は恩師島村抱月が逝去した時を例外として、二度と東京には近寄らず、生まれ故郷である海と山に挟まれた素朴な地に永住しました。
東京を去るにあたり、激しいまでの自己嫌悪、自己批判の言葉で綴られた『還元録』という随筆を発表。新しい価値観を矢継ぎ早に求めてくる時流に迎合し、にわか仕込みの学問的知識で巧みに世を渡ろうとした自分を心の底から恥じています。本来が気丈な精神の持ち主でなかった御風は、仕事の気忙しさや雑誌「早稲田文学」の二度の発禁処分などから極度の神経衰弱に陥り、家庭においては時に妻子に手を挙げてしまうほど心身が荒んだ状態にありました。
同時期の別の作品で、御風は中央論壇の華やかで浮薄な文化を、農夫や漁師といった昔と変わらない素朴な民の生活と対比させています。無名な存在ではあるが太陽や雨風と直に向き合い、喜びも悲しみも自然の風土とともにある人々の姿に真実の生を見いだしている。この曰く「凡人浄土」に還る事こそが、あるべき本然の自分自身を取り戻す道であろうと悟る。むろん農業に身を転じたのではありませんが、こびりついたエリートとしての特権階級意識を取り払い、精神的レベルにおいて健やかな民衆と同じ土壌に自らを置いて精進しようという切なる思いが持ち上がる。これらの思索の過程で芽生えたあの良寛和尚への敬慕は、数々の研究作と創作物語として、誠に求道的で美しい結実を見るに至ります。
この懺悔と退住については、純粋に御風の精神状態の安定を期したもの、あるいはきびしい職業倫理に沿った行動と見る人もいれば、交流のあった大杉栄ら無政府主義者との距離を鮮明にすることにより、自らに掛けられた思想的嫌疑を晴らそうとする意図があったと見る向きもあります。大正5年と言えばまだ治安維持法が施行されるより前の事ですが、一度官憲に睨まれた者が国家と民衆の双方からどれほど白い目で見られ窮屈な思いを強いられるかは、当時の世情を知らない人には理解の及びがたいところです。御風は社会主義者でもはたまた無政府主義者でもありませんが、糸魚川に帰ってからも彼の行く先々には尾行が付き、手紙は何十年のちまで検閲の対象になっている。栄誉ある文学誌の編集者として種々の社会思想の持ち主と関わった事実が、これほどまで自分の身に塁を及ぼすとは思わなかったでしょう。
しかし、糸魚川で真の熟成を見た御風文学を愛する私としては、退住の具体的理由を一点二点に絞ることにさして興味は湧かない。踏み慣れた故郷の土の上で心身の健康を実感したいということは誰にもあり得るし、他方、従来は与えられていた自由な言論活動の場を奪われる事も文筆業者としては死活問題です。後者について、御風自身は何も語っていない。思想家との縁について何事かを喋ると、他人だけを悪者にして独り良い子でいることにもなってしまう。自分の発言を端緒に関係者の生命が脅かされる危険もある。倫理観の強い御風の性格から見て、そうした裏切りとなる事態を避けたかったのではないかと私は想像しています。
そして主たる原因はどちらであれ、御風が糸魚川へ戻ってくれた事で、我々は無欲閑静の域に達した歌と文章、童謡詩が味わえる恩恵に浴している。水の滴るように清らかな、魂の発露のごとき氏の書芸術に接する幸福も得たわけです。
この「大ぞらを」の歌には、かつては青々とした空の色とは程遠いところにあった心を洗い浄め、この雲の動きのように自然の中に自己を靡かせながら生きて行きたいものだという憧れの気持ちが表れているでしょう。だからいまだ大空の悠然とした姿に完全には魂が溶け込んでいないとも言える。歌人として、書芸の人として前途の発展が望まれた時代の御風の心持がしみじみと偲ばれます。
書幅については、私が集めている御風遺墨の中でも特に気に入っているもので、子供のようにのびやかに呼吸しながら、むずかしい事は考えず楽しそうに筆を運んでいる様子に心惹かれます。書の性格と歌の内容が呼応しているのも感慨深い。氏がもしも都の塵にまみれた文士生活を続けていたなら、こうした歌や書蹟の円熟をみただろうかと考えることもあります。「・・これまでの私の放浪生活は、新しい別個な世界に到るための旅ではなくして、旧きおのが住家の如何に価値あるものであつたかの、新しき自覚に導くための試練の旅であったことが自覚された。可愛い子に旅をさせろの旅であったことが自覚された。
私は今その故郷へと帰つて行くのである。そして全く柔順なる心を以て、そこの生活の味ひを味ひ、それによつて失われつつあつた私の心の統一を取り返さうと思ふのである。
阿字の子が阿字のふるさと立ち出でて
また立ちかへる阿字のふるさと
幼い頃誰から教はつたと云ふ事なしに教はつたおぼえのあるこのやうな古歌を、再び口ずさみつつ私はその私みづからの心の故郷へと帰つて行くのである。これまでのかなりに長い思想的放浪生活の間のさまざまの経験を幻の如く思ひ浮べながら・・。」
「還元録」(大正五年一月)より。結びの言葉。
7月1日、糸魚川にて。