人間学講話『運命を創る』と『百朝集』です。
道徳評論家で郷学研究所・安岡正篤記念館の理事長をしておられる孫の安岡定子さんは、幼い頃、家の前を通りかかった二人組の一方が「これが国粋主義者の家だよ」と話しているのを聞いたことがあるという。巷間のレッテル貼りというのは誠に厄介なもので、実像と程遠い評価、肩書きであっても一度刷り込まれると容易に取り払うことができなくなる。安岡氏とそのご家族は勿論そうした風評を知ってはいたが、一切取り合おうとしなかった。誰が言い出したのか、右翼だの政界の黒幕だのというレッテルがいかに良い加減な当て推量であるかは、潔癖な思想家たる姿を著作で知る人には容易に分かるだろうと思います。氏は戦前から左右双方の暴力革命とは程遠い考えを持っていたし、まして戦争による難局の打破といった自国の品位を下げる短絡的な発想などに共鳴したはずがありません。
そしてもう一つ、しばしば書籍の帯に刷られている「政財界の指南役」という売り文句が、かえって安岡氏の名に影を落とす一因になっているように私は感じます。政治家の文章が格調高くなるべく手を入れるなどすることはあったようなので、これは事実を半分は言い当てているかも知れないが、戦後の自民党政権による55年体制の行き方は、断じて氏の政治哲学における理想を体現するものではない。講義では公害問題や金権腐敗、政治家の日常的な言動等を挙げて、学問が足らん、人物ができておらん、目先の利に目を奪われ国全体の事が見えておらんと不平をこぼしていた。要するに、安岡氏は権力も暴力装置も持たない一思想家であって、為政者や大企業を思うままに操ったなどと考えるのは全くの邪推と言うべきでしょう。もしも氏の高邁な精神に深く感ずるような政治家、財界人が沢山いたなら、昭和の日本は国民全体にとり、もっと良い社会になり得ただろうと思います。
あと、よく見かける「陽明学者」という位置付けも一面的にすぎる。若き日の東大での卒論が『王陽明研究』だったことから来る評価なのでしょうが、周知のとおり、安岡氏の研究対象は中国古典の四書五経を核として、広く東洋思想全般にわたっています。
安岡さんは穏健な思想家でしたが、あの日中、太平洋という無謀な戦争を引き起こし、日本を破滅寸前にまで追い込んだ指導者たちに対しては事ある毎に怒りをあらわにしていました。改訂前の旧百朝集(昭和21年刊)には、のちに削除された戦争末期の文章が幾つかあって、「偽善で固めたあの指導者共がよく神社に詣れるものだ」という赤裸な心情を綴っています。もちろん戦中は言論統制が厳しく、安岡さんとて表立った体制批判はできなかった。東絛首相からの指示で発禁の憂き目に遭った本もありました。
遂には空襲で小石川の金鶏学園が焼かれ、膨大な研究資料が灰塵に帰する。心血を注いで設立したこの学園と埼玉県の日本農士学校は、戦後の占領政策でそれぞれ解散、接収となり、おまけに大東亜省の顧問を務めた関係から戦犯容疑を掛けられ(蒋介石の尽力で助かる)、公職追放を受ける。
当時四十代の後半、何を信じたらいいか分からないような混乱の渦中にあって、古人の思想の断片に慰藉と希望を求めて出版されたのがこの『百朝集』でした。東洋を中心とする世界の古典的な哲学、文学の箴言に短い注釈を付したもので、著者自ら「私の内面世界・心の王国の名所旧蹟ともいうべきもの」と評している本です。各章が一、二ページですので、多忙な人が鞄に入れて時々見開くにも適した内容と言えるでしょう。
一文のみ引いておきます。
五七
六時心戒(りくじしんかい)
鬧ドウ時・心を錬る。静時・心を養ふ。坐時・心を守る。行時・心を験す。言時・心を省す。動時・心を制す。
金蘭生『格言聯璧』
こういう人知れぬ自心の秘修などを近代人は全くやらなくなって、世間を相手に議論し運動するような、華やかなしかし空虚なことばかり流行る。真の人物事業の出ない所以である。
さわがしい時、ごたごたとりこんでおる時こそ、それにめげぬように心を錬ることだ。静かな時に心を養っておき、坐る時には心も動揺を静めるように守り、行動する時は心を実験する好機である。ものを言う時は内心を反省せねばならぬ。動揺する時には散乱しやすい心をよく制馭すべきである。
(p.112)