『眼の壁』
松本清張・著
(新潮文庫)
初版:昭和33年、光文社刊
連載:昭和32年4月~12月、週刊読売
『眼の壁』は作家デビューから数年後、『点と線』と同時期に連載された長編小説で、松本清張の名作の一つに数えられます。原作を読んだのは今回が初めてですが、佐田啓二主演による1958年の松竹映画を何度も観ており、事件の概要と物語の荒筋は頭に入っていました。
社会の中枢に蠢く実体を見せない犯罪組織に立ち向かうスリルに加え、映画では高度成長期前の、まだ素朴さの残る日本人の生活様式や地方の原風景が記録されているのが印象的でした。ただしサスペンスの舞台だから叙情的な映像美は強調せず、モノクロの雰囲気を生かした虚無的な画に仕上げられています。
映画の印象では中編くらいまでの小説かと思っていたのが、実際は500ページを越える大作。当然ながら映画よりも人物の一挙一動、事件と推理の内容が子細に綴られています。けれども先へ先へと誘う磁力のようなものがあって全く冗長さを感じさせない。もっと長くてもいいと思わせるほどで、興奮と感動で胸が高鳴るまま読了していました。
大手企業の会計課長が、大切な給与支給日の直前、銀行を舞台にした手形パクリ詐欺にかかり、会社に莫大な損害をかけた責任を負って自殺する。世話になった部下の社員(主人公)は、善良そのものな課長を陥れ死に追いやった人間たちへの憤りを抑えられず、新聞社の友人と二人で密かに事件の究明に乗り出す。
犯行の隠蔽のために連鎖的に起こる殺人。暴力をちらつかせるも容易に正体を掴ませない新興右翼への挑戦。東京、名古屋、長野、伊勢とほのかな旅情を掻き立てる広範な舞台設定・・。初期の松本清張の人間社会を描くペンは冴え渡っており、主人公と新聞記者の粘り強い行動力には、著者みずからが現実の重大事件にメスを入れる時の熱情がそのまま投影されています。
警察機関の捜査でなく、素人による不得要領だが懸命な推理に従ってストーリーは進行する。ここで主人公に明智小五郎のような超人的頭脳を与えてしまうと、おそらく一般読者は物語の渦中に自らを置くことが難しくなるでしょう。度重なる回り道や行き詰まりは、事件の闇の深さを実感させ、架空の話にリアリティを持たせるのに役立っていると思います。
又、本作は推理小説ではあっても、悪の首魁を突き止めるいわゆる「犯人当て」を話のクライマックスにはしておらず、かなり最初の段階で主人公たちは犯罪グループの親玉に目を付けている。それよりも既に果たされた殺人や誘拐の理由づけの方に推理的要素が多く盛り込まれている。事件の動機の方に話の力点を置く、松本清張らしい特徴と言えるでしょうか。

デビュー以来、大衆から絶大な支持を受け続けた松本清張ですが、文学者や評論家の中には、氏の著作をまともな芸術と見なさない人が実は沢山いました。ある出版社が、明治から現代を網羅した文学全集を編纂したとき、選考委員の一人だった三島由紀夫は清張を選ぶことに強硬に反対した。年長の大作家にもかかわらず、あれは文学ではない、独自の文体が無いだのと散々な言い方をしたらしい。しかし最後には彼の意見が通り、清張作品は惜しくも全集から除外されてしまう。頭でっかちで美意識の塊みたいな三島が、清張の社会派リアリズムに価値を見出だせなかったことは容易に想像がつきますが、採用されないという事は三島の意見に同調する委員が他にも数名いたということでしょう。
清張という人は常に社会問題と関わることで自己の在り方を模索する文士であり、また小説家としては読者に興味を持ってもらえるかどうかを念頭に置いて仕事をした人だと思う。そのどちらも、純文学作家の自意識の世界からは不純な創作態度に見えたかも知れない。あの短くて素っ気ない描写、所々文法的にぎこちなくもある文体の一体どこに、読み手を虜にする魅力の源泉があるのか。スタイリストの三島には、ついぞ理解の及ばない事であったでしょう。私自身、清張文学を沢山読んでいても、なかなかその面白さを上手く説明できないのですが、少なくとも彼は書きながら、読者の顔や心と上手く対話をしている。『眼の壁』は週刊読売に長期連載されていた小説ですが、想像上の架空の話でもって、生活に忙しい読者の関心を次週まで惹き続けるというのは、勘の鋭いプロの文士でなくてはできない業でしょう。
本作をはじめ、『ゼロの焦点』、『黒い画集』、『砂の器』といった代表作も、それぞれに娯楽を超えたシリアスな著者のメッセージが感じられ、読んでいる最中に得られる楽しさ以上に、心に残るものの多い小説ではないだろうかと思います。