〇ロッシーニ:序曲集
1、歌劇『アルジェのイタリア女』序曲
2、歌劇『ブルスキーノ氏』序曲
3、歌劇『セビリャの理髪師』序曲
4、歌劇『シンデレラ(チェネレントラ)』序曲
5、歌劇『どろぼうかささぎ』序曲
6、歌劇『コリントの包囲』序曲
7、歌劇『セミラーミデ』序曲
8、歌劇『ウィリアム・テル』序曲
NBC交響楽団
指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ
録音:1950年(1)
   1945年(2~6)
         1951年(7)
         1953年(8) 
         ニューヨーク、カーネギー・ホール
発売:2015年 ソニーミュージック CD

☆『セビリアの理髪師』序曲のクライマックス。⏬
モーツァルトの『魔笛』序曲の主題に似た音型を反復させながら、嬉々とした盛り上がりを見せます。

トスカニーニが1945年から8年間にわたって録音したロッシーニの管弦楽曲を一枚にまとめたアルバム。『アルジェ』のみNBCの放送収録で他はRCAの正規録音、会場はすべてカーネギー・ホールです。テープ以前の音源が多く、CDでは多少粒が粗く聴こえる箇所もありますが、モノラル特有の中央に向かって凝集した音は、トスカニーニの意思の下に結束するオーケストラの迫力を充分に感じさせます。

バッハ、モーツァルト、あるいはベートーヴェンやブラームスはこよなく愛するのに、ロッシーニとかスッペの音楽は非芸術として鼻にもかけないクラシック・ファンがいます。彼らの序曲は、別に深刻な雰囲気を目指したものではないから基準を変えて聴けばよいわけですが、音楽の世界を厳格に区分して高尚な雰囲気の芸術だけに権威を持たせるというのは如何なものか。テレビで教養番組しか見ない大人みたいで、そうした人にあまり尊敬の念を抱くことはできません。
いわゆる娯楽性の強い管弦楽作品、他にウェーバー、シュトラウス一家、レハール、シャブリエ、オッフェンバック・・これらの作家達の歌心溢れる名曲を、音楽好きとして敬遠する理由がどこにあるだろう。一般に、優れた古典作品はたとえベートーヴェンであってもただ難渋で重い一方ということはありません。取りつきにくいとされる彼の後期クヮルテットにだって息抜きの部分、ユーモアがあります。そのベートーヴェンが晩年にロッシーニの歌劇作品を高く評価していたという話を伝記で読んだとき、さすがは教養の高い音楽家だと妙に納得した覚えがあります。ロッシーニはベートーヴェンのように脂汗を絞って曲を書いたり、音楽芸術のみに一生を捧げたとは言えないにせよ、天性の歌心のない作家にあのように感興ゆたかな劇音楽は書けない。真に軽い内容の音楽であるなら、トスカニーニやカラヤンという芸術家が大真面目にロッシーニの序曲集の録音に取り組むはずがありません。

トスカニーニは過度な感情的色付けを避ける指揮者ですが、本来は人間の歌声で音楽をイメージする人ではないかと私は感じます。昔も今も、彼を即物的な志向の強い音楽家だとする意見があります。音の現象として取れば間違いではないでしょうが、トスカニーニの場合はロマンティックな本能を律した結果として、音符の強調や硬直気味の緊張したフレージングが生じた。ハイフェッツと同じ事が言えるかも知れない。もしも直感の世界でのロマン的な情が薄い人間なら、抑制するエネルギーも少なくて済むわけで、トスカニーニの尋常でない厳格さと緊迫感は、たとえば本人の生来の趣味と思えるジョージ・セルの冷たいリアリズムとははっきり区別して捉えるべきでしょう。そこには結果と原因の違いがあると思います。

前回も書いたとおり、イタリア作家の婉曲的でないおおらかな歌謡性にトスカニーニは特別な相性を示すようで、このロッシーニの序曲には彼の音楽家としての地の感性がよく現れています。有名な『セビリャの理髪師』の終盤におけるクレッシェンドの部分から末尾までを添付しておきましたが、こんなにエネルギッシュで好景気な音楽だったのかと驚嘆させられます。音楽への絶対的な信仰心、忠誠心がなくては実現できない見るもあざやかな快演です。
同時に楽員のトスカニーニへの忠誠の固さがよく分かる。1945年の巨匠は衰えも全く見られず、目的地まで脇目も振らずに突き進むその姿には心底頭の下がる思いがします。