2024年5月5日

 

(定例の番外については朝日俳壇歌壇が休載のため休み。)

 

吉原大門のところにあった元引手茶屋(後注1)「松葉屋」への訪問及びその後の出遭いについては、4年前、1324(思い出ぞろぞろ「吉原・松葉屋」)に記述したところである。(https://ameblo.jp/ao2sai-sekimen/entry-12598298108.html

 この度、まったく予期せぬことながら、「荷風全集第15巻」(岩波書店)所収の「葷斎漫筆」(1933年(昭和8年))によって「吉原・松葉屋」と再び出遭うこととなった。

 「葷斎漫筆」は永井荷風が江戸時代の文人の何人かを紹介するもので、その最終部分に狂歌師戯作者大田南畝(1749~1823。蜀山人、四方赤良、寝惚先生等々様々な別名を有す。幕府御家人)が登場する。荷風によって「南畝七十五年の生涯、その作る所の詩賦文章一としてその為人(ひととなり)の洒脱なるを窺(うかがい)知らしめざるはなし。その声誉の死後一百余年を過ぎて猶顕著なるもの蓋(けだし)偶然に非ず。」とされている荷風絶賛の人物である。

 その大田南畝が37歳の時、裕福では決してなかったと荷風は分析しているのだが、「一擲千金贖身時」(身を購(あがな)う時千金を擲(なげう)った)として身請けしたのが「松葉屋」の抱(かかえ)(後注2)三穂崎だった。三穂崎は廓を出て名を賤(しず)と改め、そのしずが「松葉屋」の年中行事を語るところを南畝は随筆「松楼私語」としてものにしたのである。すなわち、大田南畝の「松楼私語」の「松楼」とはわが懐かしき「松葉屋」のことであったのである。

 「松葉屋」はその後所有者は変わったが明治大正昭和と存続し、1998年(平成10年)に至って廃業した。

 最後の女将で、「吉原はこんな所でございました」という著書(現代教養文庫、ちくま文庫)のある福田利子さんは2005年(平成17年)、享年85歳で逝去されたそうである。

 

 なお、「荷風全集第15巻」所収の「桑中喜語」(1926年(大正15年))に1904年(明治41年)荷風帰朝の時、荷風の劇評仲間14、5人が泊付きの祝宴を張った場所として「松葉屋」が登場するが、千束町1丁目の諸国商人宿とされており、極めて近くではありながら別の「松葉屋」と考えるほかない。

 

(注1)       

 引手茶屋とは、貸座敷(客と遊女が二人で過ごすところ)のうちの上級の大見世(おおみせ)に向かう客を迎え、芸者、幇間を呼んでお客をもてなし、そのあとでお客を大見世に送るのを仕事とするところ。いわゆる廓の三業(貸座敷、引手茶屋、芸者屋)のうちの一。

(注2)

   抱とは、年季奉公中の自立していない芸娼妓。←→自前