2020年5月20日
新内の名人・柳家紫朝(1929~2010)のCD「柳家紫朝 大津絵両国」(リクロ舎)をお弟子の柳家小春さんからの御案内があって購入。このCDには付録というにはかなりのウエイトのあるCD大の小誌が付いていて、中に「ききがき・柳家紫朝(聞き手・山本進)」が掲載されている。うれしくなるようなエピソードがいくつもある中に、料亭「松葉屋」が2度登場する。一度だけだが行ったことがあり、楽しく飲んだ記憶のある私としては、この「松葉屋」登場はとりわけうれしいことであった。新内で紫朝と組んでいた喜久次郎という人がその後専属芸人みたいな形で「松葉屋」いたことがある、「松葉屋」は新内が好きで紫朝も可愛がってもらったというところと、岡本文弥という大先生の奥さんに紫朝が「松葉屋」で「浜町河岸」をやった時に三味線を弾いてもらったことがあるというところである。
私がこの「松葉屋」に行ったのは、昭和60年代前半、ある団体の事務局長のような人に連れられて、だった。その事務局長はその後、使い込みか何かで姿を消すことになったのだが、たしか北海道出身で、粋人というタイプの人では全くなかったが、何かのはずみでこういうところに通うという身に合わぬ趣味を持ってしまい、そんな羽目に陥ることになったのだと思う。
「松葉屋」は吉原大門のところにあった料亭で、三業のうちの1つ、引手茶屋という商売の最後の生き残りだったと思う。花魁ショーなどというものをやって都バスの夜の観光コースに組み入れられていたこともあったが、私が行ったときはもう衰退していたのではないかと思う。私が行った時は繁盛しているという感じではなかった。
一緒に行った事務局長がかなりの常連となっていたのであろう、飲み始めの時から座敷には女将がずっと居てくれた。途中からは人形振りをするというお姐さんも入ってきた。私の一族にも人形振りの一座を持っている人がいたとか、日舞とバレエとの共通点はどこか、というような話題で盛り上がった。2次会までみんなで行くことになり、2次会は津軽三味線を目の前で演奏してくれる店だったことを覚えている。あのまんま、あの世界に取憑かれて、のめりこんでしまったら、事務局長と同じ運命をたどっていたかもしれない。危ないところだった。
この女将が本を書いていたはずだ、その本があったはずだ、と思い出し、本棚を探してみた。「吉原はこんな所でございました 廓の女たちの昭和史(福田利子著 社会思想社現代教養文庫)」が見つかった。表紙の裏には「福田利子」のサインもあった。久保田万太郎の「松葉屋主人に代わって」という昭和36年の短文が掲載されているパンフレットとお店の名刺も本に挟んであった