多数の人間を幸福にするための、少数の犠牲。
果たしてそれは、許されるべき事なのか――
カルネアデスの板、トロッコ問題、臓器くじ。※
物語のテーマとしてよく登場するこのお話。
僕が書くストーリーでも、たびたび取り上げています。
別にこれらに対しての問題提起がしたいとかそんな崇高な考えがある訳ではなく、
単純に物語のとっかかりとしてとても題材にしやすいからです。
その一番の理由は、どちらの立場にいる者に対しても共感できる余地があり、
かつ両者のぶつかる様子を描くことで物語を侵攻させられるからです。
犠牲を出して大義を為そうとする側――例えば、
100万人の魂を犠牲にして闇に包まれた世界を救う方法をとろうとした者がいた時、
次の4つの考えに大きく分けられます。
①救われた後の世界で生きる事ができる大多数の者達にとっては、それは幸福。
②犠牲となる100万人に選ばれてしまった者達にとっては、それは不幸。
③救われた側の者の中には、そんな犠牲を出してまで生き残りたくないと思う者もいる。
④犠牲となる側には、世界を救うために自分の命を捧げられるなら本望だと思う者もいる。
これらを多少アレンジする事で、同じテーマでも全く違った物語になります。
「その犠牲を出さずに大義を為す方法はないのか?」
解決手段を廻って、それぞれの勢力がぶつかる物語。
おそらく一番スタンダード。
ただし、“犠牲を出さずに”の主張が夢物語すぎると、受け入れてもらえません。
犠牲の上の大義をなそうとする者が、
それが“大義のためである”事を明かさない場合、多くの人間にとって「悪」としてうつります。
主人公にとっては悪を倒したつもりだったのに、実はそれは世界を破滅に導く一手だった……
こんな話も良くあります。
「彼女が命を投げ打ったのは、こんな醜い世界のためじゃない……!」
愛する人を犠牲で失った者が世界の醜さに心を病み、悪役に転向してしまうパターン。
世界を滅ぼそうとする者として、作中ではほぼ純粋悪として描かれつつも、
終盤のシーンでこの思想を明かしたりする事が多い。
作品の本筋のテーマでなくとも、ネタとして散りばめる事でも面白くなる可能性を秘めています。
うまく扱って、心を動かす物語を作りたい。
※カルネアデスの板、トロッコ問題、臓器くじ ― Wikiより抜粋して要約。
軽く読んでみるだけでも面白いので、興味のある方はレッツ検索。
カルネアデスの板:
船が難破して大破、乗客は海へと投げ出された。
自分は、人ひとりがやっとつかまれる板をなんとか見つけたが、そこへもう1人別の人物が現れた。
この時、そのもう1人の人物を殺したとしても罪には問われない、という寓話。
実際の日本の法律でも場合によっては適用される。
トロッコ問題:
トロッコがこのまま進めば5人が死んでしまう。だが進路を変えれば、1人が死ぬだけで済む。
何もせずに5人をそのまま死なせるべきか、
進路を変えて1人を殺す方法を選び、5人を救うべきか、という問題。
助かる人数だけで見ると単純だが、
“能動的に1人を殺す事になる”という部分が判断の分かれ目になる。
臓器くじ:
健康な人間をくじで1人殺し、その臓器を使って複数の移植必要患者を助ける。
倫理的な面は考えないとして、果たしてこの行為は良い行いなのだろうか、という問題。