こちらは少ないと言っていましたが、昨日から今朝にかけてそれなりに降りました。
だいぶ浜雪から山雪に変わってきたでしょうか。
それでも10年前くらいまでは毎年1メートルを越える積雪があったことを思うと、60センチや70センチでも少ないと感じてしまうのが現地人の感覚です。
三女の通学時間の時点では、メイン道路以外の除雪はまだ。
新雪を歩くのは気持ちいいですね。
バス停は雪の壁によって埋もれていました。
但馬の秘境にある真言宗のお寺、善住寺。
僕は善住寺の住職をしている弘純(こうじゅん)といいます。
このブログではお寺の生活、子育て、夫婦のパートナーシップなどを通じて自分に気づいていく僕自身の姿を表現しています。
それとともに「今お寺が存在する意味」を精一杯考え、伝えていければと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
【特に読んでほしいテーマ】
《テーマ1》 『 い の ち 』
僕のブログの中で、これを一番に読んでほしいって思います。
《テーマ2》 『 お寺に生まれて 』
僕というお坊さんができるまで。 生い立ちから修行時代まで。
《テーマ3》 『 お 経 』
お経に書かれていることを、僕なりに読み説いていきます。
【善住寺公式ホームページ】 http://www.zenjuji.jp/
【善住寺YouTube】 http://www.youtube.com/user/koujun1976
【コウジュンtwitter】 https://twitter.com/koujun1976
昨日は夕方から豊岡市で会議があって、夜の懇親会に参加。
結構吹雪いてきたし、夜の道だし、通常で一時間半近くかかる帰路はもっともっと時間がかかるよな〜。
明日の檀務は大雪予報の影響でなくなったので、ゆっくり安全に帰ろうってことで急遽泊まることに。
車はその懇親会場のそばのタイムス駐車場に停めたまま、少し離れたホテルまで帰宅の友達に送ってもらいました。
ですけど、朝起きてみて愕然。
山は多くとも市街地はうっすら積もる程度だろうという僕の見積りはまったく甘かったです。
これは選択をミスったかも・・・。
昨日帰れば良かったって思いました。
とはいえ親の四駆の車を借りてきていたおかげで少しの除雪でなんとか脱出。
帰路もガタガタ道で時間がかかりましたが渋滞はありませんでした。
お昼前に無事に家にたどり着いたら、「なんだうちはたいしたことないじゃないか」という状態。
普段少ないはずの豊岡がめちゃめちゃ多くて、普段多いはずのうちの方が少なかったというお話でした。
ちゃんちゃん。
津山に住む叔父さん(母のお兄さん)が年末にお亡くなりになっていたのですが、葬儀に参列できなかったので昨日遅ればせながら妻と子どもを連れてお参りに行ってきました。
母の里は津山市の高福寺というお寺です。
僕は不義理をしていまして、20年ぶりくらいにこちらに伺いました。
妻は母と二人で15年くらい前に一度だけご挨拶に伺っているだけで、子どもたちに至っては全員初めての訪問です。
おばあちゃんの生まれたところはここなんだよと、ようやく伝えることができました。
少しでもこの場所と馴染みができればいいなと思いました。
当家からも温かく迎えていただき、御霊前で読経し、お墓参りもすることができました。
帰り際には本堂の案内までしていただけました。
こちらは妻と長女の干支である寅(とら)。
こちらは僕と次女の干支である辰(たつ)。
こちらは年女三女の干支である午(うま)。
よき一日となりました。
※というわけで今年は我が家は忌中ということで神事に関わるお正月は致しませんでした。年賀状をいただいた皆様ありがとうございました。
後日寒中見舞いをお送り致しますのでご了承ください。
五蘊の働きを通じて、感情・思考・行動はオートマティックに起こっています。
つまり、いちいち選択しなくても習慣によって自動的に行えるようになるのです。
しかしそれ故五蘊によって、毒を受け入れ、毒を育み、毒を放出していることにも無自覚になっていきます。
ですから意識的に(気付きをもって)選び直していく必要があるのです。
そう、自分の思い通りにならなかった時の反応にこそ、目覚めの鍵があるはずです。
思い通りにならない時に現象との摩擦によって生じる感情をドゥッカ(苦)といいます。
起こる現象と「こうなってほしい」「こうあるべきだ」という思いの逆行から生じるものです。
思い通りにならない。
やりたいことがやれない。
意見が通らない。
そのドゥッカが生じた時、どのような反応を無自覚に起こしているでしょうか。
怒鳴るのか。
責めるのか。
一言言ってやろうと毒の言葉を混えるのか。
ぐっと痛みをこらえているのか。
よくよく観察してみると、毒が酷くありませんか。
それならば、無意識領域をしっかりと明らめて、「〇〇だから〇〇する」という固定のプロセスを、「〇〇だけど〇〇する」という風に書き換えていくことができれば、そこから自由になれます。
それでは、悪い習慣を戒め、新たな善い習慣に改めるためのプロセスをお伝えしましょう。
無意識下に起こるその毒反応を、
どう意識化し、
どう言語化し、
どう修正化し、
どう新たに習慣化し、
そして、どう新たな無意識として根づかせていくのか。
これが修行の5ステップです。
ぜひやってみてください。
いつか三毒がほどけた時、 出来事はただ起こり、ただ消えていくはずです。
一年ほど前のある日のことです。
娘たちが池の周りに集まり、しゃがんで何かをやっていました。
何をしているのかなと見ていると、カマキリに水をかけているのです。
生き物をいじめちゃダメだよと注意しようとしたところ、むしろカマキリを助けているのだと言います。
三人は「カマキリ救出作戦」を行っているということでした。
よくよく見ると、カマキリに水を掛けると、なんとお尻のところからするする~っと一本の長いハリガネムシが出てくるではありませんか。
なるほど、この寄生虫を体の外に出してあげることがカマキリの救出なのかと納得しました。
インターネットで検索すると、ハリガネムシは成長するとカマキリをコントロールして水辺へ向かわせ、入水自殺させて体外へ出て生殖行動を行うのだそうです。
水を掛けるとハリガネムシが出てくるのは、水辺に着いたと勘違いしているのかもしれませんね。
さらに当時小4の三女によると、どのカマキリにハリガネムシが入っていて、どのカマキリには入っていないのかがわかると言います。
「このカマキリは狂暴だからハリガネムシが入ってる。このカマキリは穏やかだから入ってない」
それが本当かどうかわかりませんが、どこか信じたくさせるような三女の観察眼です。
こうやってカマキリたちをハリガネムシの支配から救ってあげる娘たちの姿を見て、とても微笑ましく思いました。
さて、そこで思い出したのが仏教の基本である克服すべき煩悩、「三毒」の存在です。
実は同じように人間も、眼に見えない三つの概念体に寄生されて行動を支配されているというのです。
その支配から自由になることが仏教の目的となります。
一つ目は「ラーガ(貪)」という名の毒鶏です。
認めて欲しい、褒めて欲しい、かまって欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しいと貪り続ける愛に餓えた「毒鶏」に身体を支配されると、欲しがる思いは止むことなく、足ることを知りません。
ギャンブル依存症、アルコール依存症、甘いもの依存症、ワーカホリック(仕事中毒)などに繋がっていくこともあるでしょう。
不満、不足、欠乏、渇愛の意識を埋めようとする飽くなき欲望。
そんな「貪りの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
二つ目は「ドヴェーシャ(瞋)」という名の毒蛇です。
許してなるものかと怒る傷の癒えることがない「毒蛇」に心を支配されると、憎しみ、恨みは絶えることなく、すぐカッとなり、寛容になることができません。
人間関係の悪化や家庭不和、暴言や暴力の常態化などに繋がっていくこともあるでしょう。
傷つけられたという被害意識が防衛のために作り出した加害反応。
そんな「瞋りの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
三つ目は「モーハ(痴)」という名の毒豚です。
一方的な見方、偏見に満足し、本質に目をそむけるこの「毒豚」に心を支配されると、今の自分さえ良ければそれで良く、自分のした行為が自分にまた返ってくるなどとは夢にも思いません。
自己内省力の欠如や共感力の欠如、現実逃避などに繋がっていくこともあるでしょう。
自分と他人は同じではないという分離意識が生み出した自分の視野だけでできた狭い世界。
真実を知らぬが故に、いつまで経っても愛に飢え、満たされることなく、足りることはありません。
そんな「痴かさの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
毒鶏と毒蛇と毒豚の三毒に完全に支配された輩を「鬼」というそうです。
人気アニメの『鬼滅の刃』の中に出てきた鬼の台詞がまさに三毒の全てを表しています。
「自分がされて嫌だったことは他人にしちゃいけない。違うなあそれは。人にされて嫌だった事苦しかった事を、人にやって返して取り立てる。自分が不幸だった分は、幸せな奴から取り立てねぇと取り返せねぇ。それが俺達の生き方だからなぁ。」
貪りと瞋りと痴かさ。三毒が揃うとき、「不幸の連鎖・復讐の連鎖」が止まらなくなります。
多分人は、誰もが鬼になる可能性も仏になる可能性も秘めているのではないでしょうか。
不公平な環境、不条理な出来事の中にも決して鬼に体を明け渡してしまわないよう、三毒を克服していきたいものです。
それでは具体的にはどう対処すればいいのでしょうか。
実は仏教では三毒を中和する三薬の存在が示されています。
ラーガ(貪)にはダーナ(布施)を。
ドヴェーシャ(瞋)にはマイトリー(慈愛)を。
モーハ(痴)にはプラジュニャー(智慧)を。
このように、それぞれの毒に合う薬を用いるのです。
一つ目の「布施」とは与える行為のことで、お金や物を与えるだけでなく、笑顔や優しい言葉で敬意をもって他者に接したり、重い物を持ち席を譲ったり、自らの持つ物や能力を惜しみなく使うことです。
“奪う循環”から“与える循環”へと現実が転換するための実践です。
もらってももらっても満たされなかった心が、与えることで逆に満たされていくことを感じるはずです。
布施が習慣になると、“ない”という方に向けられていた意識が“ある”という方向へと向けられていき、貪という毒が自然と薄まっていくでしょう。
二つ目の「慈愛」とは思いやりの心で、生きとし生けるものに対する深い友情の心をもつこと、あらゆる人々の幸せを願うことです。
お釈迦様はおっしゃっています。
「慈の瞑想を深めなさい。慈の瞑想を深めればどんな瞋恚も消えてしまうからです。」
【慈の瞑想】
私が幸せでありますように。
私の親しい人が幸せてありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
私の嫌いな人が幸せでありますように。
ぜひやってみてください。
怒り許せなかった思いが、慈しみを拡大していくうちに小さなものに感じていくはずです。
慈愛の感覚が習慣になると、被害意識が大いなる愛の意識へと変わり、瞋という毒が自然と薄まっていくでしょう。
三つ目の「智慧」とは自分と他者を分けていた境界が、観察の結果として溶けていくことです。
痴による自分の視野だけの狭い世界を越え、自分も他人も表象では異なっていても本質では繋がっていることを理解することが智慧であり、自他分離した固定観念やそこから生じた偏見を手放す必要があります。
他者を幸せにするためには自分が幸せでなければなりませんし、自分を幸せにするためには他者を幸せにしなければなりません。
自分の起こした行為はいつか還ってくる波のようなものだと見通し、 自分の行為の行き先まで見据えながら行為することが大切です。
私はあなた。あなたは私。これが真実です。
【懺悔文(さんげもん)】
我昔所造諸悪業
(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴
(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこんかいさんげ)
【訳文】
我々が昔より作っているいろいろな悪い報いをもたらす行いは、皆いつからか貪瞋痴の三毒に身体と口と心を支配されてしまうことで生じています。
そのすべてを私は今悔い改めます。
心が三毒に支配されると不機嫌をまき散らすなどの態度が無自覚に生じます。
口が三毒に支配されると、チクチクとした嫌味、毒舌、余計な一言、嘘、悪口、責める、怒鳴る、決めつけるなどの言葉が無自覚に生じます。
身体が三毒に支配されると暴力、窃盗、性加害、殺人などの行動が無自覚に生じます。
気付かずにいてごめんなさい。毒あるこれまでの行為を悔い今から改めていきます。
毒を受けた人は、また別の誰かに毒を放ちます。
その毒を受けた人も、さらに別の誰かへと毒を返していきます。
こうして毒は巡り、世の中から消えることはありません。
だからこそ、自分のところでその連鎖を止め、毒を回さないよう努めることが大切です。
しかし一方で、毒を回してはならないと無理に我慢し、怒りや悲しみを押さえつけてしまうと、それは内に溜まり、やがて心や身体を壊してしまいます。
毒を放たず、それでいて溜め込まない。その両面が求められています。
ひどい毒環境からは距離をおくというのも大切でしょう。
まずは毒の存在に気づくこと。
そして、物事が思い通りにならなかった時の自分の無自覚な毒行為に気づくこと。
それが、すべてのスタートです。
皆様、明けましておめでとうございます。
令和8年、仏暦2569年が始まりました。
今年の干支はうま年ですね。
それにかけて、「今年は何事もうまくいく」という語呂合わせがよく使われているようです。
言霊として、皆の意識にポジティブに働けばいいなと思います。
私が十数年前からとても大切にしている言葉があります。
「うまくいくから大丈夫。
もしうまくいかなくっても、やっぱり大丈夫。」
そんな勇気と安心を兼ね備えた言葉です。
先日不登校長女が高校の受験を控えて食欲が落ちるくらいとても緊張していました。
今までスムーズに入れていたような学校ですが、現在不登校児の増加により30名も落ちてしまうらしいのです。
「落ちたらどうしよう」
そんなことばかり考えるのは僕に似ているのでしょう。
そんな時にかけ続けたのがこの言葉です。
「きっとうまくいくから大丈夫だよ。それに落ちたってね、一つの可能性が閉じるってことは、新しい可能性が開けるってこと。だから心配しなくても大丈夫だよ。どっちになってもオッケー!」
そんなこんなで、なんとか試験会場に出かけていきました。
結果として無事合格できたのですけど、今後もたくさんうまくいかないこともあるでしょう。
そのたびにうまくいかなかったけれど、結局それでも大丈夫だったなっていう経験を積み重ねて行ってもらえればと思います。
そう、それは僕自身にとっても大きな人生のテーマです。
皆さんにも贈ります。
「うまくいくから大丈夫。
もしうまくいかなくっても、やっぱり大丈夫。」
それが大乗仏教からもじった「大丈夫っ教」です。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。 合掌。
2025年もいよいよ終わろうとしている。
例年の如く、今年の一年がどんな年だったのか振り返ってみようと思う。
今年の一番大きな思い出は平安仏教の2大聖地に登山できたことだろう。
春に一人で天台宗の総本山である「比叡山」に登ることができたと喜んでいたら、
秋になんとグループで真言宗の総本山である「高野山」に登る機会にも恵まれた。
夏に戦後80年の節目に家族で「長崎」に行き平和を祈ることができたと喜んでいたら、
秋になんと心の相談員ネットワークの仲間たちと「広島」に行き平和学習と折り鶴奉納をする機会に恵まれた。
こういうのを「引き寄せ」とか「シンクロニシティー(意味のある偶然の一致)と呼ぶのかもしれないね。
「喜べば 喜び事が 喜んで 喜び集めて 喜びに来る」
そんな歌があるけれど、まさにその通りだなーとしみじみ。
対となるもの。
二つで一揃いとなるようなもの。
喜んでいるうちに、その片割れまでが引き寄せられてきたような不思議な偶然を目一杯喜んだ。
今年は「対となる二つの事象がペアリングして一つに合わさった一年だった」と総括したい。
被災地支援も2年目に入り、能登の志賀町の方々との繋がりもかなり深まった。
今年の春から形態を変えて正久寺をお借りしての「お茶会」になって大盛況。
秋には二人の娘を連れて行くことができたことも画期的なことだったな。
せっかく学校に行っていないのだから、もっと連れ回して世界を広げてあげようという風に実行できたのは、親としての心持ちが昨年より広がったんだと思う。
お寺の子ども体験企画もさらに充実。
春休み子供修行体験の小豆島巡拝は22名というちょういい人数で実施。
夏休みの子供修行体験の寺っ子スクールは受け入れ可能最大の30名という大盛況。
さらに夏の終わりに「熊谷川の生き物観察会と水辺の小さな自然再生」を今年初めて開催することができたことも大きい。
たくさんの子どもたちと関わり合えてとても嬉しかったな〜。
一昨年、昨年と少しづつ趣味となってきている山登り。
今年はさらにたくさん山を歩くことができた。
前述した比叡山、高野山はもちろんだけど、それ以外も機会に恵まれた。
春にまりこ達と3人で登った東京の高尾山。
春に1人で登った金沢の卯辰山。
秋に1人で登った広島・宮島の弥山。
夏休みに家族で登った長崎の雲仙普賢岳。
そして初冬に家族で登った鳥取・扇ノ山。
改めて山歩きの素晴らしさを知ることができた。
また、今年はかなり仏教の考察も深めた一年だった。
特に「三毒」と「悪業」については、リアルな事例を当てはめて考え続けた。
とはいえ、たくさんわかったおかげで、たくさんわからないことも広がった。
ありがたいね。
それと今年度は小学校のPTA会長も務めることにもなった。
児童数減少にともなう組織縮小やイベントの廃止など、少し寂しい気もするけれど、しっかり引導を渡しにいっているところ。
周囲を固める役員さんにも恵まれて、とても助かってる。
今年は地域の方の協力によって温泉を使った足湯が設置され、「温泉小学校」という名前が名実ともにふさわしい学校となりました。
「充て職」となる町のPTAや子供会組織の役まであって大変だったけど、少しは社会にもご奉仕できたかなと思う。
そしてもう13年目となる金剛講但馬教師会の会長としては、金剛講100周年にあたるという記念すべき年だった。
それに伴い但馬から大勢が高野山に行ってお祝いの奉納をするための「高野山団参」の企画の大部分を引き受けた。
参加者の取りまとめやコース作成など不慣れなことに取り組んだが、周りのフォローのおかげでなんとか無事に成功させることができてとても満足している。
その他にも、新たな出会いや久々の再会がたくさん。
出会ってくれた皆さん、お世話になった皆さん、どうもありがとう。
家族の思い出もたくさん。
子どもたちよ、父ちゃんの趣味に付き合ってくれてありがとう。
妻とは16周年。
ずっとそばにいてくれてありがとう。
振り返れば、2025年も最高だったよ。
それでは皆さん、良いお年を!!
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